洞窟の比喩
太陽(光)
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洞窟
実 」
物 」 壁
」
」
」 人間→
ついたて
ちょっと分かりにくいですが、これは洞窟の中であり洞窟の上から太陽の光が差し込んでいる。多くの人間は縛られていて矢印の方向しか向けず、ついたてによって人間は後ろの状況が全く分からない。そして人間は壁に映し出されている実物(真実)の影だけをいつも見ている。
しかしある時、一人の人間が束縛から解放されついたてを乗り越えて実物(真実)が存在する上の世界を見ることができ、まぶしさの苦痛に耐えながらも上の世界のものを認識し、自分が今まで見ていたものは全て偽りのもの(壁に写された影)だったんだと理解した。
そして再び洞窟の中に戻り、洞窟の中に居る人々に自分が見た真実を同じように見せようとして上の世界へ連れ出そうとした。しかし、あまりのまぶしさにその他の人たちは耐えられず、その苦痛によってある人は再び拘束されることへと自ら戻り、ある人はなんてひどいことをするんだと吐き捨て、ある人はこいつは上の世界へ行ってまぶしさで頭がおかしくなったのだといい、この結果多くの人は「上の世界は危険だ」という共通認識を持って疑わないようになり、真実を知った1人の人間は変人扱いされ多くの人々から蔑まれるようになる。
そして洞窟の中の人たちはというと、真実でもない影に対してああでもないこうでもないという不毛な議論を毎日繰り返していて、時にはその影の認識に関して喧嘩が起こるという有様である。
そうして真実を見た1人の人間は洞窟の中のこと(俗世間のこと)はどうでもよくなり、真実を胸の内に潜め静かにこの世を去ること以外に道は無くなる、またしそれ以外何も望ま無いようになる。
このような比喩が実際の世界においても当てはまるのではないかということでした。
哲人統治
ソクラテスは、一国の支配者は哲学者でなければならないといいます。
洞窟の比喩のように自ら上へと向かい太陽(善のイデア)やその他の実物を認識したうえで洞窟へ再び戻り、洞窟の中に居る人々を上へ導かなければならない。富や名誉ではなく思慮ある優れた生へと人々を導ける人でなければならないと。
そして、このための教育が国家には必要であるといいます。
教育とは、多くの人が考えているように知識を外から人間に入れることでは無い、知識を外から入れるというのは感覚器官を人間が人間に授けると言っているようなものだといいます。本当の知識とは感覚器官の機能のように元々人間(魂)に内在しているものであり、これを想い出させることが教育であるといいます。
つまり哲学者とは、その資質(物わかりの良さ、記憶力の良さ、度量の大きさ)や素養によって魂が常に上のものへと向いていて真実を常に想い出し観得している者だといえます。
この哲人(哲学者)が王(支配者)になるか、王(支配者)になった者が哲学を志すか、このどちらかで無ければならないとソクラテスは言い、1国を治める支配者は「神的な金を持つ守護者であり、また哲学者でなければならない」といいます。
そして支配権力が競争の的になるのではなく、支配すべき人が国家(共同体)のために仕方なく統治、支配することが本来の支配者の在り方なのだといいます。
数とは
「1」とは何なのか。当たり前に認識できることだと考えていますが、何をもって僕たちはあらゆるものを1と認識しているのか。「1」を半分にすると「0.5」と「0.5」になるが、「0.5」という数が2つになる。つまり「1」を半分にすると、「0.5」が1つと「0.5」がもう1つになる、これは1を分割すると1つのものが2つに増殖したという見方もできる。「1」とは何なのか。
僕たちは無意識に数を認識している。例えば視覚を例にとると、視野という1つの描写内において、人は無意識にあらゆるものをグループ分けして識別している。例えば、たんすと机と本棚が視野内に映り込めば、それらを別々のもの(3つのもの)として識別するし、本棚をとってみてもその中に置いてある本を1冊2冊3冊と識別する。
つまり僕たちは、潜在的に何かの条件で1つの視野内のあらゆるものを無数に無意識に識別している。その条件とは視覚に関して言えば、大きい・小さい、太い・細い、薄い・厚い、長い・短いなど様々であり、これは誰かに教わったわけではなく自らかあるいは元々人間に具わっている機能だといえます。
聴覚(大きい・小さい、高い・低いなど)、触覚(太い・細い、硬い・柔らかい、重い・軽いなど)に関しても同じようなことが言え、識別する要件というのは「感覚が同時に正反対のものを示す場合」ということでした。
よって数の認識というのはもともと人間に具わっている知性の働きによるものであり、数についての知識を深堀することで真実について何か分かるのではないか、「数学」は真実を観得するための手掛かりになるのではないかということでした。
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