はじめに
「哲学」とは、考えることだとか、真実を探究することだとか、知を愛することだとか、抽象的にとらえる時にはこのような言葉が使われていると思います。
しかし、考えるといっても何について考えるのか、真実といわれても何についての真実なのか、そもそも「知」とは何なのか。
あくまで僕の感覚なのですが、考える過程で人間の共通認識の部分が刺激されているような感じがして、今まで自分が培ってきた先入観を俯瞰(ふかん)してみることができ、今まで生きてきた自分の世界が全てであり人生の全てであるという自分の先入観は、とてもちっぽけなものだったんだなと考えることができ、ある意味人間という生物に立ち返れたような、「生きる」ということにおいて再認識できたような、そういった感覚に至り、人間という生き物について、あるいはこの世界においての視野が広くなったように感じ、なんだか楽になりました。
今から紹介するのは、僕がプラトンの著書、あるいはプラトン哲学を好きになるきっかけになった、とても読みやすい本です。
この本の中で対話される大まかな題目は以下の4つです。
相(イデア)とは何か
簡潔に言うと「それがその名称である本質的な理由」です。
この本の中では、「蜜蜂」や「形」などを例に出しているのですが、
例えば、「蜜蜂」なら、大きさや形など種々雑多な種類の蜂が存在する中で、それを蜜蜂たらしめる本質的な理由(蜜を巣に蓄える)、これが相であり、これが蜜蜂の相です。
「形」についても、様々な形(円形、三角形、楕円形、球、円柱、三角錐、四角錐などなど)がある中、全ての形を形たらしめる本質的な理由(相)、それは「立体の限界」であり、限界が確認できる
(有限性がある)からこそ「形」として認識でき、
宇宙はどんなかたちと言われても答えられないのは、あくまでも現段階で人間には宇宙の有限性は確認できないため、相が分からない、つまり「形」は認識できないという結論に至るということです。
そして、この相(イデア)を思考によって探し求めるのがプラトン哲学であり、種々雑多な相を探求するのではなく、特に、「善」の相、「徳」の相、「正義」の相、「美」の相、「節制」の相、「勇気」の相などを主に探求します。
そして、目に見える(視覚によって感覚できる)世界(可視界)と、目に見えず考えることによって把握できる世界(可知界)の中で、後者の世界の中に真実(相、イデア)があるという前提で様々なことを考えていきます。
特に、この後者の世界(可知界)を真実(相、イデア)が存在する世界としてイデア界と呼び、イデア界は知性を用いてしか把握できないため、真実が存在する世界を把握できるものいわゆる知性・知恵を愛するという意味で、「知を愛する」と言われたりするのだと思います。
可視界は肉体によって受動的に誰でも感覚を享受できる世界であり、可知界は魂(知性)によって能動的に感覚を享受する世界であるとして、
後者の可知界に多く訪れている人、理性的な人ほど、「知識」の多い人、知者となるのかというところで、
例えば「4」という数字をAさん、Bさん、Cさんが見ていたとすると、全員の視覚が正常ならば、「4」という数字を認識することに関して、誰かが多く認識しているということや誰かが少なく認識しているということはおそらく無いと思うので、これは視覚によって享受することのできる直接的、受動的な世界(可視界)の感覚であるとします。
しかし、「4」という数字を感覚した上で、Aさんは何も考えずただ「4」という数字を物質的に認識していた、Bさんは「4」という数字を見て「2+2=4」、「1×4=4」と等式が成り立つ考え出した、Cさんは「2+2=4」、「1×4=4」、「8÷2=4」、「√16=4」と等式が成り立つと考え出したとすると、同じ「4」という数字を見ているにも関わらず知識の量に違いが出てくる、この考えるという間接的、能動的な行動によって把握できる世界が可知界であり、AさんよりもBさん、BさんよりもCさんがこのことに関する知識が多い、可知界に多く訪れていると言えます。
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