裁判(司法)の役目 2
「害悪さ」には優先順位があり、
一番有害なのは、魂の劣悪さ(不正、放埓、無知、臆病)、次に有害なのは身体の劣悪さ(虚弱、病気、見た目の悪さ)、次に有害なのは財産の貧しさであるといいます。
では、これらから解放されるためにはどのような技術が必要なのか。
「財産の貧しさ」には、金を儲ける技術。「身体の虚弱、貧弱さ」には体育の技術、また、「病気」には医術が必要。
では、「不正」には何が必要か。
ここで必要なのが政治術の一つである「司法術」であるとソクラテスはいいます。
「される」ものは「する」ものに対して、その仕方に応じて「される」。
例えば、サッカーボールを強く足で蹴れば、その分強くサッカーボールは足で蹴られる。サッカーボールを弱く足で蹴れば、その分サッカーボールは弱く足で蹴られる。
野球ボールを速く手で投げれば、その分速く野球ボールは飛んでいき、野球ボールを遅く手で投げれば、その分野球ボールは遅く飛んでいく。
では、裁判(司法術)とは。
「不正を犯した人」が「正義」によって、「正しいこと」をされる。そして、「正しいこと」とは、「美しいこと」でもあり、裁判(司法術)とは、「美しいこと」をされることでもある。
「美しさ」とは、「有益さ」あるいは「快楽」またはその両方を人にもたらすと定義されており、裁判(司法術)は「快い」ものいわゆる「快楽」ではない。
よって、裁判(司法術)とは、「快楽」を人にもたらすのではなく「有益さ」を人にもたらすのであり、人は「不正を犯して」も裁きを受けることで「最大の害悪」からは解放される。
そして、「不正を犯し」ながら「裁きを受けない人」これが「最大の害悪」をもつ人間であり、魂が最も劣悪な「有害さを被っている人間」であるとソクラテスはいいます。
欲望を満たすことが幸せではないのか
カルリクレスはいいます。
「欲望」は抑制せず大きくなるままに大きくし、「思慮」と「勇気」をもってそれに奉仕するのが真の男のあるべき姿であり、「節制」によって「欲望」に歯止めをかけ、ありあわせのもので満足しようと心がける人は臆病な男らしくない頓馬な連中のやることだと。
この言葉に対して、ソクラテスは昔の賢者の言葉を借りて反論します。
昔の賢者の1人はこう言っていたそうです。
「われわれは現在死んでいるのであり、身体がわれわれの墓なのである。」
そして、身体という墓のなかに居るわれわれの本性が「魂」であり、魂はおおまかに3つの部分から構成されている。その中の1つに「欲望」が宿っている部分があり、この部分はたやすく他のものに説得されて、信じやすい性質のものであるといいます。
そして、思慮の足らない間抜けな連中のこの部分(魂の欲望的な部分)は特に説得されやすく、欲望が宿っている部分を甕(液体を入れる容器)に例えると、この連中の甕は信念が無く忘れっぽいため、穴があいていたりひびが入っていたりして、その中へも穴の開いた容器で繰り返し欲を満たすための液体を運んで入れようとし、いつまでたっても満足に甕を満たすことはできない。
このことを知っている思慮分別のある賢者は、まず甕を健全で穴やひびの入っていないものに作り上げ、甕の中へ液体を運ぶための容器も同様にひびや穴の開いていないものを選び、ありあわせの快楽で満足できる、節度ある生活を選びとるだろうと。
よって間抜けな連中はいつまでたっても欲望が満たされず、欲望が満たされないと人間は苦痛を感じるため、放縦な人たちは極度の苦痛を持ち続けることになる。
しかし、ここでカルリクレスも反論します。
「甕を満たしてしまったあの男にはもはや快楽なるものは1つもない、喜びも苦痛も感じることのない石のような生活がまっているだろう。穴のあいた満たされない甕に多くの液体を注ぎ込むまさにその時に人は多くの快楽を感じ、これが人間に幸せをもたらすのだ」と。
これに対し、ソクラテスはまた反論します。
「極度の快楽を伴う生活が幸せだというのなら、疥癬(ひどくかゆみが起こる皮膚の病気)にかかった人が、そのかゆい部分をかいているその時、その人は幸福であり(かゆい部分をかく時には快楽を伴うから)、こころ行くまでその部分を掻いていればその人は一生幸せに生きていけるのか。」
「そんのはずはない。自分が欲する快楽の善悪を判断せず、なんでもかんでも欲しいままに快楽を求める人間の終局は放蕩者の生活に行き着くのだから。」
かき壊された皮膚には苦痛が伴うように、激しい欲求を満たす行為には反動があると自然(身体機能)は告げている、ということでした。
おわり
ソクラテスはこの著作の最後に、人は善い人間と思われるのではなく、善い人間であるようにこころがけるべきであり、このことが人間にとって一番立派で正しい目標なのだとして、カルリクレスに対してこんな言葉をいっています。
目指す目標に到達したなら、君は生きているときも、死んでからも、幸福にすごせるだろうから。そして、もし誰かが、君を馬鹿者だとして軽蔑するとしても、また、もしそうしたいのなら、侮辱するとしても、それはそうさせておきたまえ。いや、そればかりか、あの不名誉な平手打ちをくらわせるとしても、ゼウスに誓っていうが、君はとにかく平然として、それを受けておけばいいのだ。君がもし徳を修めて、ほんとうに立派なすぐれた人間となっているのなら、そのような仕打ちによって、君は何一つ恐ろしい目にあうことはないだろうからだ。
プラトン著 加来彰俊『ゴルギアス』 (岩波文庫、1967年6月16日第1刷発行・1994年5月16日第30刷発行)
そして、この本の主題である「弁論術」をはじめとする数々の迎合は、いつでも正しいことのために用いるべきであって、ただ単に相手を喜ばせるのではなく、本当に相手のことを考えて行動するのが大切であるということを改めて考えさせられました。
特に日本は迎合社会の特色が強いと顕著に感じるため、自分の在り方についても深く考えなければならないと思いました。
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