正義への疑心暗鬼
しかし、不正なことも上手くやらなければそれなりの罰を受けることになる。立派なことの前には神々は汗を置いたというように、不正なことを上手くやることにも相当な労力が必要になる。仲間を集め組織を作り、抜け目が無いように策略を練り、罰を受けることを恐れない勇気も必要になる。
では、不正を立派にこなし、その悪事によって得た利益を神々に捧げることは敬虔なことではないのか。
また、神々がそもそも存在しない、あるいはいたとしても人間のことに無関心であるならどうなるだろう。その場合においても、「正義」は果たして賞賛されるべきものなのだろうか、「正義」とは何なのか。
国家の成り立ち
今までの議論は、「正義」についての評判による利益(結果的に生じる利益)のことについてだった。そして、その有益性から見ると不正のほうが利益が大きいように思われる。「正義」それ自体の有益性、例えば「健康」や「見る、聞く、考える」など、結果がもたらす利益ではなくそれ自体を持つことにおける有益性を見出せたら、そしてそれが「不正」を上回っていれば「正義」をまだ助けることができる。
生涯、「正義」について探求し続けているソクラテスはいいます。
ここまでの「不正」を賞賛する議論はとても的を得ていて、どうやったら「正義」を助けられるのか分からなくなってきている。しかし、「正義」が悪く言われる状況に自分がいて口も利ける状況なのに、「正義」を助けないでいることも僕にはできない。
ある文字が小さくて読みにくい時、それと同じ文字が他の場所に大きく書かれていたらそっちを読んだ方が分かりやすいだろう。そして、大きな文字を読んでから小さな文字を読んだ方が、小さな文字についてより分かりやすい状態で読めるようになる。では、個人の正義(小さなもの)から国家の正義(大きなもの)に目を向け、そのうえでまた個人の正義に戻ってくることにしようとソクラテスはいいます。
ではまず国家というものがなぜ必要なのか。
それは人間は1個人ではあらゆるものに不足しているからです。基本的な欲求である衣食住についてすら人間は1人でそれを成立させることは難しく、服を作る人、食べ物を作る人、居住場所を作る人などが必要で、多くの人を同じ場所に集めて共同体(国家)を作り効率的に生活を送れるようにしました。
そしてこの場合、みんなで色々な仕事を一緒にしたほうがいいのか、それとも1人は1つの仕事だけを行った方がいいのか。人間には色々な自然的素質があり、手の長い人、足の長い人、目のいい人、頭のいい人など色々存在します。ではその自然的素質に適した仕事を個人に与え、その仕事のみに集中させた方が効率的で立派にその仕事をこなせるのではないかということで、個人には個人に適した1つの仕事のみを与えることにしました。
このように、共同体(国家)が完成したとします。この共同体は様々な場所に様々な在り方で存在するため、ある場所にしか実らないものや、ある場所にしか適さないことなど、その土地の条件によって生産できるものや収穫されるものがあります。
これを争いを起こさない形で手に入れるには、自分たちの国家特有の生産物を対価にするという形で他の国家特有の生産物を獲得する「貿易」が必要であり、この売買を行うためにはやり取りの仲介人である貿易商が必要になります。
これ以外にも、国家が成り立つためには様々なものやそれに対する様々な働き手が必要になり、国家が複雑化すればするほど様々なものが必要になり、国家における人々の欲求が膨れ上がるほどその国家は多くのものが必要となるし、その分国家は大きくなります。
そしてソクラテスは、欲求を必要程度に止めた国家を善く整えられた「真実の国家」と呼び、過剰な欲求によって大きくなりすぎた国家を「熱で膨れ上がった国家」と呼んでいます。
守護者の自然的素質
「熱で膨れ上がった国家」はその分様々なものを常に必要とする為、その供給が追い付かなければ他の国家を侵略し自分たちの国家の糧にすることになる。そのため他国からの侵略に備えるために、国家には争いから自分の国家を守るための守護者が必要になる。
その守護者とは、自分の国家を守るという何よりも重大な役目であり、他の仕事とは完全に分離していなければならず、その仕事のみに集中させて立派に行わさせなければならないといいます。
守護者に適している自然的な素質として、第一に気概がありどんな局面においても恐れず勇敢に立ち向かう者でなければならない。そして、犬の自然的素質と同じように、自分がよく知るものにたいしては温和で、敵に対してのみ気概を見せる者でなければならない。このように、守護者の自然的素質とは、大前提として何に対して憤激すべきかという知恵を持ち、気概があり、また忍耐力も強い人間でなければならない。
では、この守護者の教育とはどのようにすべきなのか。肉体(外的なもの)と魂(内的なもの)がそれぞれ別に存在しているとすると、肉体には体育が、魂には音楽・文芸が必要になるといいます。
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