プラトン著『国家』 正義について11 (魂の優位性)

ソクラテス(プラトン著)

魂の優位性

飢えや渇き身体の空虚さをもたらす無知魂の空虚さをもたらす。前者は食べ物や飲み物みよって満たされ、後者は知識によって満たされるといいます。

この2つの内、より真実を人間にもたらすものはどちらなのか。食べ物や飲み物なのかあるいは知識や知恵なのか。前者は生成消費を繰り返し恒常不変の在り方とは程遠いいものであり、それに比べ知識や知恵はそれが思惑ではなく本当に真実に与っている知識や知恵なら永遠に受け継がれるものになる。

つまり、食べ物や飲み物など生成や消費に関わるものよりも、知識や知恵など非物質的で他のものに干渉されないため自足的で、永遠に存在するもののほうが遥かに優れているし、これは身体との関係に似ていて、劣ったもので満たすより優れたもので満たす方が善い結果をもたらすことは明らかなため、生成消費に関わるもの(劣ったもの)身体を満たすよりも、理や真実(優れたもの)を満たす方がより善い結果をもたらすのではないかということでした。

また、洞窟の比喩を持ち出して、

上の世界太陽を観れた人
中の世界縛りから解放され上へ向かおうとする人
下の世界洞窟の中で縛られ身動きの取れない人

だとすると、多くの人は下の世界から中の世界に、また中の世界から下の世界を行き来しているのであって上の世界へ向かおうとしてもあまりにまぶしいため居心地のいい下の世界に戻ってしまう。

上の世界に存在する自足で純粋な快楽を味わったことの無い、また味わうことのできない中の世界下の世界にいる人たちは、家畜のように与えられた食べ物に飛びつき、交尾し、身を肥やしながら、上の世界に存在する真実の快楽の影のような苦痛が混ぜ合わされた快楽をいつも求め、その取るに足りない快楽のために傷つき傷つけあってまた時には殺し殺され合って全生涯を盲目の内に終えることになると。

つまり、上の世界に存在するものを観た人、真実やその真実がもたらす純粋な快楽の存在を知り幸福の在り方を知った人、この人が王になる資格のある人であり、中の世界下の世界にいる人達を本来は導くべき人であると、そしてこれが王が哲学者でなければならない所以であるといいます。

逆にその対極の僭主的な独裁者は、上の世界の存在を知りもしないのに知ったように喋り大衆を導くのではなく大衆に迎合し好感を与え、下へ下へと大衆を導き不毛な争いの絶えない醜い下の世界へと引き込むといいます。

人間の似姿の比喩

ソクラテスは人間の似姿として、あるものを想像上で作って欲しいといいます。

1つは、大昔の怪物として出てくるキマイラのようなあらゆる動物の頭を持ち、穏やかな動物の頭や猛々しい動物の頭を持ち自在にその姿を変えることもできるし、新しい頭を生やしたり既存の頭をひっこめたりすることができる恐ろしい怪物の姿

2つ目は、強い気概を持つライオンのような動物の姿

3つ目は、理を知る(神的な)人間のような姿

これら3つを結びつけ1つにし、周りを何かで覆い人間の形に仕上げるこれを人間の似姿とする

では、不正が有利であり正義は不利であると唱える人の主張は以下のような意味になるといいます。

不正を賛美することは、恐ろしい怪物ライオンに御馳走を与えこれらを強靭にし、理を知る人間に対してはこれを飢えさせて弱々しくし、怪物ライオンがお互いに争い合うことを賞賛するようなものであると。
正義を賞賛することは、恐ろしい怪物の穏やかな頭だけを残してそれ以外は切り落とし、理を知る人間ライオンを味方につけお互いに余計な手出しをせず友愛の関係を築き気遣い合うことであり、これを賞賛することであると。

では美しい事柄とは、穏やかで神的な部分に荒々しく卑しい部分を服従させることであり、その反対が醜い事柄であるといいます。

富を持つことは確かに有益なことではあるけれど、果たしてそんなことのために自らの高貴な部分を愚かな部分に委ねて本当にいい人生が送れるのだろうか。このことに関してソクラテスは以下のようにいいます。

いいかね、もし金を受け取ることによって、息子なり娘なりを奴隷にーそれも野蛮で悪い男たちの奴隷にーすることになるとしたら、たとえそのために、巨万の富を手に入れたとしても、けっしてその人の利益になるとはいえないだろう。それなのに、自己の内なる最も神的なものを、最も神と縁遠い最も汚れた部分の奴隷として、何らいたましさを感じないとしたならば、はたしてそれでも彼は、みじめな人間だとはいえないだろうか?その人は、夫の命と引きかえに首飾りを受けとったエリピュレよりも、もっとはるかに恐ろしい破滅を代償に、黄金の贈物を受け取ることにならないだろうか?

プラトン著 藤沢令夫訳『国家(下)』 (岩波文庫、1979年6月18日第1刷発行・2008年12月4日第45刷発行・2021年5月6日第60刷発行

昔から放縦、放埓が非難されるのは、先ほどの例えで出てきたライオン恐ろし怪物に強い力(主導権)を持たせることで様々な悪い事柄をもたらすとされているからであり、強情で気難しい人間ライオン的な部分が強い力を持つことで成り立ち、逆に怠惰や軟弱な人間この部分が弱められることで成り立ち卑屈で浅ましい人間恐ろしい怪物にライオンが味方したときに成立するといいます。

だから、生まれつき自己の中の最善な部分理知的な部分、知や徳を愛する部分)が弱く生まれてきた人間は、卑屈さ強情さにどうしても引っ張られてしまう。

そのため、自己の中の国制を善く統治している人(内にある理知的な部分が支配権を握っている人)が神的な思慮に基づいて、外からの力で他の人々を支配しなければならないし、その結果として争いが少なくなり友愛や協和が形作られるのが必然でなければならないということでした。

よって、人間においても国家においても最善の部分でその他の部分を支配しなければならないし、それによって秩序や協和をもたらすことが正義であるといいます。

その正義は、個人にとっては肉体よりも遥かに価値があるような仕方に応じて、健康よりも遥かに価値のあるものを個人に提供し、国家においては協和や友愛で溢れた美しさや幸福を提供するだろうということでした。

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