プラトン著『国家』 正義について1 (正義とは誰の利益か)

ソクラテス(プラトン著)

はじめに

正義」とは何なのか。これを知ることは人間にとって永遠の課題であるかもしれないし、決して人間には知ることができないものなのかもしれないし、もしかしたら人間が作り出した概念に過ぎず存在しないものなのかもしれません。

しかし、人間は正しさという概念から決して抜け出せない生き物なのかもしれないし、少なからず自分にとって正しいと思う考え方を各々持ってしまっていて、その考え方によって様々な価値観や規範が生まれ、それにより立派な人間になったりあるいは頑固になってしまったり卑屈になってしまったり、実際に正しさが衝突して争いが起こってしまうことも多々あります。

では、生涯を通じて正義について考え続けたソクラテスが導き出す「正義」とはどのようなものなのか。それが明らかになるのがこの著作の内容です。

「正義」とは、「強い者への利益」か「弱い者への利益」か

「正しさ、正義」とは何なのか。民主制、寡頭制、独裁制などあらゆる国家体制には支配者層があり、国家を導く。

この支配者自身に利益をもたらすことが「正義」なのか、あるいは被支配者(支配されている人たち)に利益をもたらすことが「正義」なのか。

トラシュマコスという人が前者、ソクラテスが後者の立場に立って議論を始めます。

トラシュマコスは言います。
国家において、支配者(強い者)はその強さゆえに正しい者でもあり、その支配者が制定する法に被支配者(弱い者)が従うことが「正義」なのだ。
つまり「正義」とは、被支配者(弱い者)が支配者(強い者)の制定した法に従い、支配者(強い者)の利益に寄与することなのだ。

それに対してソクラテスは次のように言います。
支配者(強い者)も時には誤りを犯すことがある。支配者が正しく国家を治めている時、この時には国家に利益が生じ、これに被支配者が寄与することは正しい。
しかし、支配者が誤った判断で国家を治めている時、この時には国家に不利益が生じ、これに被支配者が寄与することは正しくない。

そして支配者には、一国の支配者であるかぎり国家を統治する技術が必要とされると思われる。
技術とは、それ自身で自足し他のものの不足を補うために働く、簡潔に言えば他の利益の事だけを考慮するものである。

例えば、医術とは、身体の不足を補うことに関する技術だと言える。身体はあらゆるものが不足しており、その補い方について、知識においても身体自身においても教えるなり治療するなりし、身体の利益の事だけを考えるものである。この時、医術は他の技術を必要としない。医術は医術自身において、身体の利益の事のみを考えて働く。
船長においても、航海術とは船長自身の利益のためでなく、本当の船長ならば、気温や天候や操舵術などあらゆるものを駆使して、ある地点から他の地点まで乗客を安全に送り届けるという乗客のための技術であり、船長とはその限りにおいての船の支配者である。

つまり、支配者が国を治める技術とは、それが本質的な技術ならば、支配者が制定した法によって支配者自身が利益を受けるなんてことは有り得ない。被支配者に利益をもたらすこと、これが支配者が為すべき本当のことであり、国家を治める技術と呼ぶにふさわしい正しいことなのだとソクラテスはいいます。

「正義」と「不正」とは

正義」と「不正」を比べた時、一般的に「正義」は確かに素晴らしいものだけど、それを実際に自分の中に保持し続けて、あるいは実際に振りかざして人生を終えるのは非常に難しいし不可能に近いと思います。一方、「不正」は確かによくないものだと分かっているけれど、それを上手く使えば楽になることが多々ある。この共通認識は多少なりともあると思います。

しかし、「正義」が善いものであり、「不正」が悪いものであるという定義がそもそも間違っているとトラシュマコスは言い、「正義」を持つ人はお人好しなだけであり、「不正」を持つ人はあらゆるものを計らうのが上手い。

そして完全な不正を働く人は、自分の不正がばれることなく利益を全て自分のものにできる、つまり完全な「不正」とはそれ自体知恵があり美しく、それがよくないといわれるのは露呈したときに罪を受けることになるからだと言います。

だから本来、「不正」は徳(優秀性)を具えているものであり、計らいの上手さゆえに「知恵」を持ち美しいものである。「正義」はその反対で、「不正」に嫉妬して卑屈なものであり、お人好や弱者が持つ悪徳(劣悪性)を具えたものであるにすぎないとトラシュマコスは言います。

これに対しソクラテスは反論していきます。

正しい人と不正な人がいたとして、正しい人は(トラシュマコスの言葉を借りるとすれば)お人好しなため、不用意に相手に不正を働いたりせず大抵は温和である。

正しい人は正しい人に対して不正を働くことは持ち前の性格からしてあり得ず、不正な人に対してはその人が不正を犯してきた限りにおいては相手をしのごうとして争う場合がある。

一方、不正な人は正しい人に対して不正を働くことが多々あり、不正な人は不正な人に対してより一層不正を働く。

そして「不正」は「知恵」を持つものだともトラシュマコスは言っていました。

知恵」について考えてみると、この著作には竪琴と医術の例えが出てきます。

例えば、竪琴に関する知識を持つ人のことについて考えた時、弦を絞めたり弛めたりして音を調整することに関して、知識を持つ人が知識を持つ人に対してあれこれと口出しをしたり手を出すことはあまりないか全くない、しかし知識のない人にだったらあれこれと口出しをすることは多々あるし、場合によっては手を出す。
医術に関する知識を持つ人について考えた時、飲食物の処方に関して、知識のある人に対しては何も口出ししないしする必要もないが、知識のない人に対しては助言をする。

これらのことから、知識を持つ人はその事柄に関して知恵のある人であり、知恵のある人は分をおかして相手に介入したりしないといえる。

つまり、不用意に相手に介入しない「正しい人」こそ「正義」に関しての「知恵」を持つ人であり、「正義」の知恵を持つ人は美しく徳(優秀性)が具わっているのではないか。

国家の規模で考えた時、不正な国家は不正なやり方で他の国家を隷属させようと試みる。しかし、不正は無知であり、正義は知恵があると規定された今、不正は正義の助けなしには存立しえない。

不正な人は不正である限り、共同で何かをしようとするときお互いに不正を働き合う。しかし、ある目的をお互いが持っている時においては、やむおえず互いに協力し合うことがある。しかし、正しい人においては共同で何かをするときには不正を働き合う心配もなく、共同における力がより強固なものになる。

つまり、「正義」は人々の間に協和や友愛を作り出し、「不正」は人々の間に不和や憎しみ、争いを作り出す。そして、「正義」において治められた国家は協和や友愛によってより力強い共同性を持ち、損得の観点からもそれ以外の幸福の観点からも賞賛されるべき国家であるとソクラテスはいい、正義の有益性を明らかにしました。

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