プラトン著『国家』 正義について2 (正義・不正の賞賛)

ソクラテス(プラトン著)

魂の働き

目、耳、そのほか多くのものには「働き」というものがある。目には物体を見るという働きがあるし、耳には音を聞くという働きがある。そのほかのものにも、それが果たすことのできる、あるいはそれだけがもっとも良く果たすことのできる「働き」がある。

そして、「働き」を持つものには、優秀性(、働きを立派に果たし得る力)と劣悪性(悪徳、働きを悪しく果たす力)が具わる。

例えば、目に徳が具わる時にはあらゆるものを見ることに関してよく見えるようになるだろうし、悪徳が具わった時にはその目は盲目的になる

耳に徳が具わった時にはあらゆる音をよく聞くことができるだろうし、悪徳が具わった時は難聴と呼ばれるものになる

そしてそのほかの「働き」を持つものにもこういったことがあると思う。

では、魂(身体とは別の内的なもの)が存在するとしたら、それはどのような働きを持ち、どうような徳が、あるいは悪徳が具わるのか。

この魂の徳(優秀性)の一つに「正義」があるとソクラテスはいいます。

「不正」の賞賛

正義」とは本当に善いものなのか。

この議論に参加していたグラウコンは「一般的な不正」を賞賛する立場に立って言います。

では善いものとは、なぜ善いものといわれるのか。その理由は何なのか。それを3つにおおまかに分けます。

それ自体においても、それから結果的に生じるものにおいても利益が生じる。
それ自体にのみ利益がある。
結果的に生じるものにのみ利益がある。

:知的な欲求や健康など :害を伴わない快楽など :身体の鍛錬や手術による治療、金儲けなど

そして、「正義」とは何よりも賞賛されるべき性質を持つものなら、に分類される(それ自体においても、それから結果的に生じるものにおいても愛される)ものでありもっとも大きな利益を人間にもたらすはずであり、そうでなければ「正義」は多くの人が賞賛するような大したものではないのではないかとグラウコンはいいます。

事実を言えば、「正義」とはそれほど賞賛されるものではなく、ではないに分類されるものなのではないか。つまり、それ自体としては有益なものではく保持するのには苦しいものだけど、世間の評判や罪による損害を受けないために仕方なく「正義」を善いものと表面上している。

そもそも、「不正」には損得の観点から見ても有益なことがいくつもあり、「正義」においてはそれが乏しい。しかし、多くの人には「不正」を行うだけの能力が乏しいために、仕方なく「正義」を賞賛している。
それは、自分(大衆)にとっては、「不正」を犯すだけの力が無いために、「不正」を犯される方が遥かに害が大きいという損得感情が働くためである。だから大衆は法律を遵守しお互いに不正を犯し犯されないように契約を結び自分たちを守っている、これが「正義」の本性なのだとグラウコンは言います。

だから、「不正」を行う人を咎めるのは弱者の卑屈な精神から来ているものであり、実際自分が全てを思うままにできる自由を与えられたら、大抵の人は不正なことを行うだろう。

ここで「ギュゲスの指輪」の物語が出てきます。

ある日ギュゲスという羊飼いが不思議な指輪を拾います。その指輪をはめ、玉受けを内側に回すと姿が見えなくなり外側に回すと姿が元に戻る。この力を手に入れたギュゲスは王妃と共謀して王を殺し、王権を自分のものにしました。
このように、何でも行える自由を人間が持てば多くの人は「不正」を行うものだし、この物語のギュゲスのように有利な結末が待っていることも明らかです。

極度の「不正な人」について考えてみると、この人は正しい人であるのではなく正しい人と思われることに関して何よりも上手く、世間からの賞賛が凄い。そして「不正」を行うことに何のためらいもなく、また優れた策略家のため「不正」がばれることもない。
そのため、権力を金も好きなだけ手に入れることができ、自由気ままに過ごし、好きな人と交際し友には恩恵を与えられ、国にも多大な利益をもたらす人間となれる。

「不正」には、このような善い生活を送ることができるという有益さがあり、周りの人たちや国家にも利益を多く与えられるなど、「不正」は本来賞賛されるべきものなのではないかとグラウコンはいいます。

「正義」の賞賛

ここで、グラウコンの兄弟であるアデイマントスが「一般的な正義」を賞賛する立場に立っていいます。

たしかに、「不正」は有益なものであることは否定できない。しかし、「不正」が有益さを持つのは現在の生においてであり、魂が永遠に存在するものなら「正義」はこの生を終えてから有益さを大きく持つのではないか。

「不正」が人々による評判を持つものなら、「正義」は神々から善い評判を受けるものなのだ。そして、「正義」を立派に保持し続けた敬虔な人々には様々な褒美が待っており、昔の偉大な詩人であるホメロスやヘシオドスもそれを詩で語っている。

そして極度の「正しい人」は、死後、その褒美の中で永遠の陶酔の内に過ごすだろうし、不正な人は、現世で正しい人が受けた様々な苦しいことを死後に受けることになる。

これが一般的に「正義」を賞賛する人の価値観なのだとアデイマントスは言います。

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