「善」と「快楽」、「悪」と「苦痛」は違う
例えば、おいしいものを食べた時、人は「幸せー!」と言う思います。しかし、めんどくさいかもしれませんが、ソクラテス哲学的にいうと、これは「幸せ」なのではなく、欲を満たして「快楽」を感じているにすぎなということ。
そして、「幸せ」は「善いもの」であり、「善いもの」によって「幸せ」は生じる、一方「快楽」には「善いものと悪いもがある」と明確に区別されます。
その逆もしかりで、「不幸」は「悪いもの」であり、「悪いもの」から「不幸」が生じ、一方「苦痛」にも「善いものと悪いもの」がある。
例えば、今流行りのぷち断食やファスティングなど、いわるゆ「食欲」という一種の「快楽」を抑えることによって、人々は「健康」という「善さ」を目指し、それによって生じる副次的なものなどを含め「幸せ」を感じると思います。
また、病気にかかった時には、食事制限(禁欲)あるいは場合によって手術という「苦痛」を伴い、人々は「健康」という「善さ」を目指し、それによって「幸せ」を取り戻そうとすると思います。
つまり、「快楽」は人を「悪く」導くこともあり、「苦痛」が人を「善く」導くこともあるということです。
そして「苦痛」を伴ってでも欲してしまう、身体における「善」である「健康」は尊いものだということ、つまり最終的にあるいは本質的に人は「快楽」ではなく「善」を求めているとも言えると思います。
この本にでてくる「善」と「快楽」、「悪」と「苦痛」は違うという例として、飢えや渇きについての例が出てきます。
結論からいうと、「快楽」と「苦痛」は同時に起こり得るが、「善いこと」と「悪いこと」は同時に起こり得ない、よって双方は各々違うものだということです。(「快楽」は「善いこと」ではなく、「苦痛」は「悪いこと」ではない。)
基本的に人間は、ある「欲望」を抱き、その「欲望」が満たされない時には「苦痛」を感じる。
例えば、飢えている状態において、この状態は食欲が増進した「苦痛」を感じている状態であり、この時に食欲を満たすことで「快楽」を感じる。
つまり、飢えている状態で食物を食べる時、身体には「苦痛」と「快楽」が同時に起こる。
また、のどが渇いている状態は「苦痛」であり、この欲を満たす時には「快楽」が生じ、この場合も「苦痛」と「快楽」は同時に起こる。
しかし、「健康」が「善いもの」であり、「病気」が「悪いもの」だとすると、「健康」でありながら「病気」であることはありえない(「病気」でない状態が「健康」だから)、
また「節制」が「善いもの」であり「放埓、怠惰」が「悪いもの」だとすると、ある1つの欲望(例えば「食欲」)において、食べすぎを抑えている時に食べすぎを抑えないということはありえない。
よって、「善」と「快楽」、「悪」と「苦痛」は違う、つまり「快い」からといって「善いもの」とは限らないし、「苦しい」からといって「悪いもの」とは限らないという結論に至りました。
あらゆる行為の目的は、「善」であり、この「善」に到達することを目的とするものが「技術」(何が本当に善いもので何が悪いものであるかを知っている、医術、体育術など)、「快楽」に到達することで満足してしまう奴隷的なものが「熟練」(善い悪い関係なく、快さで人を満足させる、料理術、化粧術など)。
そして、さらに先へ踏み込むと、何が「善い快楽」で何が「悪い快楽」なのか、あるいは何が「善い苦痛」で何が「悪い苦痛」なのか、これを「メノン」という著作の結論で出てきた徳(アテレー)「神がかり的な思惑」によって判断しなければならない、という結論になると思います。
裁判(司法)の役目 1
「美しさ」とは、「有益さ」あるいは「快楽」またはその両方を人にもたらし、
「醜さ」とは、「有害さ」あるいは「苦痛」またはその両方を人にもたらす。
「不正を犯す」のと「不正を受ける」のは、どちらも「醜いこと」であり、「悪いこと」です。では、どちらが自分にとって有害なのか。
普通は「不正を受ける」方が、自分が実際に害を被るわけだし有害だと考えると思います。しかしソクラテスは、「不正を犯す」方が自分にとって有害であると、この著書で一貫して言います。
それはどうゆう理由で言っているのか、以下にかいていきます。
一般的に、
何でもいいですが、例えば「立場の弱い人」と「その人よりも立場の強い人」がいたとして、ただ単に気に食わないからという理由で、立場の弱い人を立場の強い人がいじめていたとします。
健全な感性の持ち主なら、この場合、より「醜い」のはいじめている側の「立場の強い人」であると考えると思います。
先ほど定義された、「醜さ」とは、「有害さ」あるいは「苦痛」またはその両方を人にもたらすという結論を持ち出せば、
「立場の弱い人」は、いじめられているという「苦痛」の側面がより大きく、「立場の強い人」は、いじめているため「苦痛」という側面は無く、それとは違う側面いわゆる「有害さ」がより大きいということになります。
つまり、「立場の強い人」いわゆる「不正を犯す人」は、「立場の弱い人」いわゆる「不正を受ける人」よりも、「苦痛」の点ではなく「有害さ」の点で勝っているということになります。
よって、「不正を犯す人」の方が「有害」であり、害悪を被るという結論に至ります。
そして、人間にとって「害悪」を背負い込むことが何よりも不幸なことだとソクラテスはいい、裏を返せば、一番幸せな人間とは、不正を犯して「害悪」を背負い込むこと無く「善」をこころがける人間(「善」を伴った行動は「美しく」、「美しさ」は「有益さ」あるいは「善い快楽」またはその両方を人にもたらすため)だともいうことができると思います。
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