プラトン著『ソクラテスの弁明』 自分を知ろう! 

ソクラテス(プラトン著)

 

 僕にはプラトンやソクラテス、またかつてのギリシアの背景知識はほとんどありません。しかし、ソクラテスの弁明の内容に僕はとても興味を惹かれました。

哲学は、今まで自分が考えていた疑問や不安を解決するヒントを与えてくれます。それもかなり人生の糧となるヒントを。

今人生においてぼやっとした不安や拘束感を感じている人、その苦しみに嫌気がさしている人は、その正体または解決法を学ぶために哲学に頼るのもありかもしれませんし、僕的には学ぶべきだと言いたいです。
生涯「生き方」や「死に方」について考え続けた人の言葉は、多忙な現代人に確かな勇気と幸福を与えてくれるはずです。

現に僕はその人達の言葉により、先入観や常識という固定観念の信憑性を吟味する力、つまり自分の理性により判断する力や行動する力の大切さを学び、「自由」という言葉の意味または大切さについて改めて理解しました。

自由は自分の心を軽く、また豊かにしてくれるものだと思います。
自分の自由を制限するものを疑うこと、何でもかんでも肯定し受け入れないこと、従った先に本当に自分の幸福があるのかどうかを考えること。
この判断力を高めてくれるものが哲学であり、自分で考え行動することの大切さを学べる学問だと僕は考えます。

自由は幸福に直結する輝かしいものです。ただ手に入れるのがとても難しいものでもあります。しかし、人生は1度きりですし、自分の思っているほど長く貴重なものでもありません。他の生物同様に死ぬときは死にます。
それなら勇気と覚悟をもって思う存分自分勝手に生きるのもありなのではないかと思います。

今回は、偉大な西洋哲学の基礎を築いたソクラテスについてです。この偉大な哲学者の言葉は、あなたの生きることについての視野を広げてくれるはずです。

知識人を装うという愚行

 ソクラテスは、あらゆる知者であろう人との対話の中で、自分の方が優れていること知りました。それは、自分が人生における「善」や「美」について無知であることを知者であろう人よりも自覚していたからです。

こう考えると、現代社会において地位や権力を持つ人の言葉に振り回される必要はない。自分の理性に基ずく、「善」や「美」を大切にした生き方をしようという考えに変わり、なんだか生きることに自由さを感じました。

特に現代社会のいいところは、自分らしい生き方をしてもお金も稼げる手段がたくさんあるところ、自分を大切にして生きれるところです。

長いようで短い人生、まずは自分をしっかりと知ることから始めようと思いました。

「善きもの」とは

出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか。 

プラトン著 久保勉訳『ソクラテスの弁明 クリトン』(岩波文庫、1927年7月3日第1刷発行・1964年8月16日第23刷改版発行・1992年3月5日第66刷発行)

これは、ソクラテスと同じ国家に属する人々(アテナイ人)へ向けてソクラテスが放った言葉なのですが、これを聞いた時なぜか「はっ!」とするものがありました。

自分の霊魂をできるかぎり善くするとはどのような行為なのか、明確に言えといわれてもはっきりとは答えることは僕には出来ません。しかし、こうではないかとぼやっとした何かを皆さんも想像できるのではないでしょうか。

これ以下は特に僕の見解です。

 確かにお金がないと現代社会(資本主義)では生活できません。しかし、生きるためにお金を稼いでいるだけで、お金を稼ぐために生きているわけではない。お金に利用されるのではなく、お金をうまく利用して、上手い具合にお金と共存していくことが資本主義社会においては重要だと思います。

「お金」は、生活を豊かにする反面、人生を破滅させることだって多くあります。だからお金を上手く手懐ける「徳」(魂の優秀性)が必要なのです。

資本主義において善く生きるために必要なのは、お金を沢山稼ぐことではなく、お金の稼ぎ方や使い方を大切にすることだと僕は思います。
お金は、肉体(自分の操る物質)を生かすためだけに必要であり、本当に自分の幸せを形成するのは自分の時間のみだと僕は思います。つまり、現代人(庶民)が求めるべき目標は、どれだけ楽に金稼ぎをして、より多くの自分の時間を作り、金稼ぎの事ではなく自分自身についての思考を巡らす時間(自分の時間)をもっともっと増やすことだと思います。

正直、善く生きたらどのような利益があるのか、将又利益は無いのか、そのようなことは僕には全く分かりません。また、利益を求めてる時点で「徳」が無いのかもしれません。
しかし、この世には代償関係が成り立つものが多々あります。こう考えると、善く生きた暁には死後何かしらの利益があるのかもしれません。

このような事を考えるときには「かもしれない」が付きものです。この世の本質は、断定ではなく「かもしれない」で成り立つことが多いと思います。つまり、絶対的ではなく、相対的に成り立つことが多いということです。
本質や真理とは、相対的にしか成り立たない不確かなものなのかもしれませんし、人間には本当の意味で理解できないものなのかもしれません。また、あらゆるものに意味をつけたがる人間の利己的な産物なのかもしれません。
哲学者にも分からないことなので、僕には分かるはずありません。しかし、こうした自由な発想を大事にすることで、先入観から逃れた楽な生き方へと近づくことが出来ると思います。

「死」への無知

死とは人間にとって福の最上なるものでないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを怖れるのである。

プラトン著 久保勉訳『ソクラテスの弁明 クリトン』(岩波文庫、1927年7月3日第1刷発行・1964年8月16日第23刷改版発行・1992年3月5日第66刷発行)

 死を恐れる、または死を悲しむのは、人間の無知ゆえだということです。人間の死後は2つのどちらかの事象が起こると考えられます。

全くの無になるか、または新たな世界へ魂が移転するかです。

前者ならば、夢を見ない時ほどの心地の良い眠りはないし、後者ならば、この世より幸せな世界への魂の移転である可能性があります。
つまり、死が悪だと確知するのは、人間の無知によって生まれた誤った先入観だということです。 
大切な人の死は確かに悲しいですが、より幸せな世界への魂の移転ならば、喜ばしい事だと思わなくてはなりません。

 先入観から逃れ、無知を自覚し、本質を見極める力を身につけなければならない。
改めてそう感じた言葉でした。

本当の「正義」

もとより何かの不足があったために私は有罪となったのであるが、それは決して言葉の不足ではなくて、厚顔と無恥と、諸君が最も聴くを喜ぶような言葉によって諸君を動かさんとする意図の不足である。

死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。それは死よりも疾く駆けるのだから。

プラトン著 久保勉訳『ソクラテスの弁明 クリトン』(岩波文庫、1927年7月3日第1刷発行・1964年8月16日第23刷改版発行・1992年3月5日第66刷発行)

 ソクラテスは多数決の結果死刑が確定しました。しかしこの判決の理由は、ソクラテスの真実をかたる言葉が足りなかったのではなく、泣きわめいたり嘆き悲しんだり、残される家族の事情を話して同情を買い、聴衆の感情を不正に動かす恥知らずな行為が足りなかったということです。

悪を逃れることはとても難しい。現にソクラテスは無知を説き明された人々の嫉妬と不正という悪によって殺されました。真実を語る「本当の正義」を持つ人が、悪に取りつかれた人々の弁論や大衆の力によって負けたのです。

しかし、ソクラテスにとってこれは勝利です。「正義」という手に入れるまたは所持することがとても難しい貴重な武器で悪を倒したのですから。

悪に染まることは簡単です。いつもいつも自分が被害を被らないところに行けば良いだけだから。しかし僕的には自分の理性に従った正義を持つ、勇気のある人が好きです。

人生は大事に大事に生きるほど長くはないし、明日、明後日に死ぬ可能性だってゼロではない。それならソクラテスのように、自分の正義を貫き通したかっこいい生き方をして全く悔いが無いような死を迎えたい。そう思わされる言葉でした。

まとめ

 ソクラテスは最後生にしがみつくのではなく、自分の「正義」に基づいて「死」を選びました。
人間には命よりも大切だと判断するものがあります。自分の命を投げ出して何かを守ることがあります。これは他の生物では考えられません。
自己保存が生物の最大の欲求であり最大の目的だと僕には思えるからです。
ただ僕は、このような人間にしか無い自己保存に勝る欲求理性による)にとても魅力を感じます。そこに人間という生物の唯一の素晴らしさを感じます。

僕には、現代社会(日本)の中で生きる大多数の人はお金を稼ぐ知識しかなく、幸せな生き方や死に方についてはほとんど知らないし、知ろうともしていないように感じます。
これは、日本社会のあまりの忙しさがそうさせているのかもしれませんし、日本という国家における国民性なのかもしれません。

ただ、国民性はそうだからと言って、自分もそうしなければならない訳ではありません。他人を思いやる正しい理性を持つならば、信じる思想は自由です。理性を磨き、全ての責任を自分でとる勇気と覚悟があれば、どんな生き方をしたって構わないと僕は思います。

ありふれた情報の中から、自分にとって本当に必要な(自分を本当に幸福にする)情報の取捨選択能力は、自分自身でどうにかするしかありません。どのような人と共に人生を歩んでいくか、または自分のみで人生を歩んでいくのかも、自分自身で判断するしかありません。
 
しかし、裏を返せば、人生を共にする人、生き方、信じる情報は自分自身で決定でき、誰にも侵されるべきでない自由を持ちます。「人生の決定権」は全て自分にあるという、「責任」と「自由」を決して忘れてはいけません。

 自分と呼ばれる物質(肉体)非物質(魂)を探求し、誰にも流されることのない自分を培う。人は死んだらこの物質体での何もかもは、良くも悪くも全て終わります。
ほんの少しの人生。今抱く不安や悩みも、生きているほんのわずかな時間のみ。

この世の情報の全てを認識しているのは自分以外の誰でもありません。それならば、全てを認識する自分を知ることで、世界の見え方が大きく変わると思います。
自分を知り、世界を知り、「正しい自分の在り方を知る」。人生はほんの少しの時間のみ。それなら、自分の「正義」を貫き通す、ある意味自分勝手な生き方をする勇気を持とうと、僕は思いました。

 

                   

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