プラトン著『パイドン』 魂の不死について4 (想起による不死の証明)

ソクラテス(プラトン著)

「想起」による証明

人が「学ぶ」とは「想起」に他ならない、というのは「メノン」にも出てきたのですが、その「想起説」による「魂不死の証明」がこの著書で述べられていることです。


(*「メノン」における想起説:ソクラテスは対話相手のメノンという青年の召使いに対して、幾何学(図形の性質)を用いて、今までその召使いが全く知らなかったことを「質問」によって自力で真実にたどり着かせた。

これにより、真実は人間にもともと内在していると説明した。)


想起説」では、「魂がもし永遠のものなら、今世以前に全てのものを見てきているはず」であり、人が「学ぶ」と一般的に言われているのは「想起している」に他ならないとされます。

ここでいう「全て」とは、「この世に存在する種々雑多のもの全て」ではなく、
魂と同じ性質(目には見えない)のもの(正義、勇気、節制、美しさ、大きさ、強さなど)相(イデア)・そのもの、の全てであり、

例えば、人が「大きい、小さい」を認識できるならば、それ以前に「大きさそのもの」について見ていなければ、もしくは学んでいなければそれらを認識することはできないし、

人が「正、不正」を認識できるならば、それ以前に「正しさそのもの」について見ていなければ、もしくは学んでいなければそれらを認識することはできない、

人が「節制、放埓」を認識できるならば、それ以前に「調和そのもの」について見ていなければ、もしくは学んでいなければならないし、

人が「美、醜」を認識できるならば、それ以前に「美しさそのもの」について見ていなければ、もしくは学んでいなければならないと。


このように人間は、あらゆる「相(イデア)・そのもの」を既に見てきたもしくは学んできたのであり、そのためこの世におけるあらゆるイデアを分有するものを認識できる、

つまり、美しい景色や人細かく言うと美しさのイデアを分有する景色や人)、大きい人や小さい人細かく言うと「大きさ」と「小ささ」のイデアを分有する人)、調和と不調和節制と放縦のイデアの分有)を認識できると。

以下、この著書「パイドン」における想起の説明です。


想起する」には、それ以前にその「想起するのもの」について知っていなければならず、

そして「想起」とは以下のように起こるといいます。


人が「あるもの」を、見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたりした時に、その「あるもの」とは別の「何か」を想い出したとすると、

その「あるもの」「何か」が、似ていても、似ていなくても、これは「あるもの」によって「何か」「想起した」と言え、

例えば、カレー(あるもの)という言葉を聞いて、インド(何か)を想い浮かべる人もいれば、タイ(何か)を想い浮かべる人もいるだろうし、あるいはその他のものや想い浮かべない人もいるだろうと思います。

しかし、インドタイを想い浮かべた人は、カレーという本質的には全く似ていないもの(食べ物と国)をカレーに機縁するものとして想い浮かべたと言え、

過去にインドタイカレーを食べたのか、あるいはそのカレーを見たり、聞いたりしたことがあるのか、いずれにしろカレー(あるのも)によってそれに機縁する(何か)を想い出したのであり、

結論、「想起」とは「それ以前に知っていたことを想い出すこと」であると言えます。



そして、この「想起」は以下のことについても言えるといいます。

例えば、「等しさ」について、

ここでは「石材」についての例えが出てくるのですが、

例えば「2つの等しい石材」があったとすると、その「2つの石材」は見え方の角度や状況など様々な要因によって、ある人には等しく見えたりある人には等しく見えなかったりすると思います。

そしてある人には等しく見えなかったとなると、「2つの等しい石材」が等しくないというとても矛盾した結論に至るため、

「2つの等しいもの」「等しさそのもの」は別物であり、「2つの石材」を見て人は「等しさそのもの」想起しているのだとし、


そして、等しく見えた人見えなかった人がいるとすると、この「2つの等しい石材」はある点においては等しく、またある点においては等しくないと言え、

言い換えれば「等しさそのもの」に比べれば「2つの等しい石材」は、「等しさそのものよりも何か不足している」と言えると思います。

そして、この「等しさそのもの」について、「2つの石材」を見たことによって想い浮かべたとすると、カレーの話のように、「2つの石材」(あるもの)によって「等しさそのもの」(何か)を想い出したのであり、

想い出したということは、「等しさそのもの」について、過去に知っていなければならないということになってしまいます。

また、この「等しさそのもの」を生まれながらに人は知っていたのだとすると、「等しさそのもの」について学んだのは生まれる以前ということになり、そして死んだ後(今の肉体を離れた後)も「知力」、「知識」は無くならないということの証明にもなります。


この証明がもし本当なら、「善そのもの」「美そのもの」「正義、敬虔、節制、勇気、自由、愛そのもの」など、その他のそのもの(イデア)にも関わってくることであり、生まれる以前にそれらの知識を得ていたのかもしれないということにつながってきます。

また、新たな物体にが宿る時には知識は忘却しており、その後の「一般的な学ぶ」という行為、いわゆる諸感覚によってそれに機縁するもの(知識)を再び把握しなおすこと、これが「想起」だと言えると思います。

そして、もし「善そのもの」「美そのもの」などのイデア(真実在)を、今まで1度も学んだことが無いのに、想起することができたのだとしたら、は今世以前にも存在していてそれらを既に知っていたことになる、

すなわち、もし真実在が本当に存在するなら、はこの肉体として生まれる以前にも存在していたということの証明になり、

そして、真実在の存在が証明できなかったら、これらの議論は虚しく語られたことになるだろう、とソクラテスはいいます。

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