プラトン著『パイドン』 魂の不死について6 終わり (イデア論による証明)

ソクラテス(プラトン著)

調和説に対してのソクラテスの反論

肉体の諸要素による調和によって魂が生成されるなら、肉体と同時に魂は生成するあるいは肉体が生成した後に魂が生成するため、想起説(魂は肉体に宿る以前から存在してる)は成立しなくなる。

よって、2つの説(調和説肉体の生成以後に魂が生成される」、想起説肉体の生成以前に魂は存在している」)は矛盾してしまう。

このどちらの説に、より信憑性があるのか。

ソクラテスは言います。

調和とは支配されるものであり、支配されるもの支配するものに指導され、その性質に追随する」と。

竪琴においては、竪琴自体調和音を作り出し、竪琴の構成要素によって、それぞれその性質に従った固有の調和音が作られる。よって、竪琴調和音を支配し、竪琴の構成要素によって、それに追随した調和音が生じる。

肉体による調和音のようなものだとしたら、竪琴調和音の主従関係のように、肉体に支配されるはずである。しかし、肉体に抵抗するときが多々ある、そしてその場合、何かしら善い結果をもたらすことを目的としている。

例えば、食べすぎを抑えたり飲みすぎを抑えたり眠気を抑えながら何かをしたり手術による恐怖に耐えぬき病気を取り除いたりなど、肉体の欲求に反して目的を為すもの(魂)が存在し、肉体が嫌がってでも善さのために肉体の欲求に勝とうとすることがある。

この場合、肉体に追随しておらず、逆に肉体を支配していると言え、また肉体の欲求にが打ち勝って判断を下している時の方が、善い結果をもたらすことが多い。

よって、肉体支配されるべきものではなく、支配すべきものである。そして、支配すべきもの支配されるものに追随しない、したがって、肉体によって魂が生成される(調和説)はありえないという結論に至りました。

また、調和であるとする以上、調和であり不調和であるなんてことはありえない。そしてそもそも、を多く持つことや少なく持つなんてことがあり、調和)を多く持つ人が善人で、調和)を持たない人不調和な人が悪人なんてことはあるのか。

を持たない人なんていないのだから、調和であるというのなら、全ての人は善人である。

また、肉体による調和のようなものだとしたら、正義の具わった調和の内にさらに別の調和が具わっているのだろうか、また不正悪徳の具わった調和でありながらその調和の内には調和は具わっていないということなのか。

竪琴調和音がさらに別の音を調和音自身で作り出すことや、調和でありながら調和でないことなんてありえるのだろうか、とソクラテスはいいます。


イデア論による証明

ソクラテス自身が理解に苦しむ次のこと、「」は「2を半分にしたもの」や「」は「1と1が合成したもの」という前提を立ててしまうと、その先の議論にいきにくくなってしまい、基盤となる前提として不安定だと考えたため、あくまでも抽象的ではあるが確実性の高い前提として次のような前提(イデア論)を立てる、

」は「2を半分にしたもの」なのではなく」という形相、実相(イデア)を分有したものであり、「」は「1と1が合成したもの」なのではなく」というイデアを分有したものであると、

たとえば、身長の違う2人がいて、身長が大きい方の人Aは何㎝分他の人Bより超過しているから身長が大きいのではなく、「大」というイデアを持つから大きいのだと、

そして身長の小さい人Bは何㎝分他の人Aより不足しているから身長が小さいのではなく、「小」というイデアを持つから小さいのだと、

このように考えていき、Aよりもさらに身長の大きい人が現れた場合、Aが持つ「大」のイデアは退き小ささのイデアを持つようになるとソクラテスは考えます。

このイデア論を駆使して魂が不死であるということを、ソクラテス下記のように証明しました。

物質、熱のイデアを持つもの)はイデア自体)が近づくと、冷たいとはならずに退却あるいは消滅する。
物質、冷のイデアを持つもの)もイデア自体)が近づくと、熱いとはならずに退却あるいは滅亡する。
また、火と雪が同じところに存在することは無い。

ここから分かるのは、あらゆるものはそのもの特有のイデアにはには)を持ち、そのもの()と反対のイデアを持つもの(に対してはに対しては)、あるいは反対のイデア(に対してはに対しては)を決して受け入れない。

簡潔に言うと、あるものはその反対のもの、あるいはその反対のイデアを持つものを決して受け入れず、場所を譲るか消滅するかのいずれかであり、同じ場所には存在しない。

肉体が宿ると「生きたもの」となる。それは、「生」のイデアを持つためである。

このようにして、生のイデアを分け持つあるいは共有するは、「死」のイデアが迫ると退却するか滅亡する。
それは、生のイデアを持つため、死のイデアを決して受け入れないためである。

正義を受け入れないものは不正と呼ばれ、規則性を受け入れないものは不規則と呼ばれ、真面目を受け入れない人は不真面目な人と呼ばれる。
では、を受け入れないものは「不死」なはずだ。

よって、不死であり、不死であるものは不滅であるという証明が完結した。

終わり

死んだらどうなるのか」という問題は、人生の大きな難問の一つである思いますし、みなさんもそうなのではないでしょうか。

死んだら自分は何もかも無くなるのか、あるいは肉体と魂・あるいは魂的なものがあり死後の世界に行かなければならないのか。

死後の事なんて誰にも分かるはずありません。

それなら、死んだら全て終わりと信じ込んでいる人も、その確信と同じくらい死んだら全て終わりじゃないのかもしれません。

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