プラトン著『メノン』 徳(アレテー)について 3終わり (徳とは)

ソクラテス(プラトン著)

「徳」とは何なのか、またそれは他人に教えられるのか

まず、「徳」そのものが全く分からないため、その性質を比喩などを使って探求し始めていくというのがソクラテスがよくとるやり方です。

(*プラトン哲学では、正しさ、節制さ、敬虔さ、物覚えの良さ、物わかりの良さ、度量の大きさなどが「徳」に含まれる・「徳」の一部とされています。)

以下、「徳」とは何か


「徳」が「知識」であるなら、メノンの召使にしたように「徳」というものを教える(想起させる)ことができる、しかし、「徳」が「知識」で無いなら、教える(想起させる)ことができないと言えます。

前に述べた通り、「徳」とは人間(魂)の善い素質なので「徳」「善」であるといえる。

そして、「善」「知識」ならば「徳」「知識」であり、

    「善」not=「知識」ならば「徳」「知識」では無いかもしれない。

簡潔に言うと、「善」「知識」であるなら、「徳」「知識」であるはずだ、ということです。


そして、「徳」「善」なので「徳のある人間、有徳な人間」「善い人間」であり、そして「善さ」「有益さ」でもあるため、必然的にどちらも「有益な人間」であるといえます。


「徳」とは、生成・消滅の概念がない永遠・不滅のもの、つまりの性質のものであるとされます。

メノン2で述べたように、にとっての「善いもの」有益なものとして、「勇気」、「節制」、「正義」、「物わかりの良さ」、「物覚えの良さ」、「度量の大きさ」などがあり、

また、「勇気」とは恐怖や不安に立ち向かう勇ましさであって「空元気」では無く、「節制」とは節度をわきまえることであって「何もしない」ことでは無いとし、

いわゆる、ここに「知」が伴わなければ、何に対して気概を持てばいいのかという、「空元気」を「勇気」に導くことはできず、何をして何をしないことが自分のためになるのかという、「何もしない」を「節制」に導くことはできないとなります。

このように有益なものには「知」という有益さが付加されており、
これを欠かす、いわゆる「無知」が加わることにより「勇気」は「臆病、意気地の無さ」となり、「節制」は「不節制、放埓、怠惰」になるということです。

つまり、有益さ「知識」であるという結論に至りました。

よって、有益なもの「知識」となり、
肉体にとって「善いもの」有益なものである「健康」、「強さ」、「美しさ」、「財産」も、「知」を伴わなければ、「病気」、「頑固、強情」、「醜さ」、「負債」となり、人間にとって悪いもの、有害なものとなる。

したがって、有益さをもたらすのは「知」のある魂であり、「知」の性質永遠・不滅)のものであるため、人間の有益性の全ては魂に依存し、魂の有益性「知」に依存する。

結論として、「徳」「善」有益「知識」となり、
「徳」「知識」であるということが証明されました。

そして、「徳」「知識」ならば、生まれつきに具わっているものでは無く、学ぶ(想い出す)ことができ、そして教えることもできると。


しかしソクラテスは、ここで自ら「徳」「知識」であると証明したにもかかわらず、これに異議を唱えます。

以下、「徳」は他人に教えられるのか。

「もし、徳が知識であり、人間にこれほどの有益さをもたらすものなら、今もそして昔にもそれを教える者がいるはずだし、学ぶ者もいたはずだ。」と、

しかし、徳を教える者は少なく、それを金を取り教えると自称する「ソフィスト」、あるいはこの時代・昔の時代に優れていたとされる人々でさえ、「徳」は教えられると言ったり、教えられないと言ったりする始末だった。

そのため、「徳」はそれを教える教師がいない以上、教えられないものであるという結論になってしまいました。


ここでソクラテスお得意の、相手も行き詰まらせ自分も行き詰るという結末になります。


しかし、残されている最後の可能性があります。

メノン2で「知識」「正しい思惑」有益さにおいて引けをとらないと述べられていました。

つまり、「徳」は人に教えられないもの「知識」でないものなら、後に残る「正しい思惑」なのではないかということです。

そして、人を善く導く、有益をもたらす「徳」は、先天的にも後天的にも人にそなわらない、
そして「知識」でもない「正しい思惑」のみ、つまり「神がかり的なもの」、「神から授かるもの」であるという結論に至りました。 

これが、ソクラテスが「メノン」の中で出した最終的な結論です。


最後に

「正しさ」、「勇気」、「知識」、「徳」、「善し悪し」などを普段何気なく使っていますが、この言葉を深く掘り下げることはとても面白いそして奥が深いと思い、考える楽しさを学べ、また、目に見えないこういったものの名称を付けた人の賢さは計り知れなかった、あるいは神がかっていいたのかもしれないと考えさせられました。
 

紀元前の人やあるいはそれよりももっと昔の人たちは、現代人を遥かに超える「知性」を持っていたもかしれませんし、もし魂が本当に永遠なら、その「知性」が自分の中に内在しており、それを引き出す能力の尺度が一般的に言われる賢さなのかもしれないと、個人的には思いました。

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