技術と熟練の違い
この違いは前述した、「知識」あるいは「信じ込み」いわゆる「信念」に対応しており、理論的な根拠に基づいて行う行為を「技術」、思い込みによって、理論とは関係なくよくできた記憶を多く保存してそれを想い出しながら行う行為を「熟練」とします。
そしてソクラテスは、「技術」は善いものであり、「熟練」はあまり善いものだとは考えておらず、「弁論術」はこの後者の「熟練」に分類されるものであり、
「弁論術」=迎合(「善さ」ではなく、ある種の喜びや快楽を目的としてそれらを作り出す熟練)であり、この技術(正確には熟練)は相手を従わせているようでも、事実は相手の内情に奉仕し従っているという一種の奴隷的な側面がある。
この、相手をよく説得できた記憶による熟練を「弁論術」であると、ソクラテスはいいます。
そして、結論として「弁論術」とは、「善さ」を無視した、ある種の喜びや快楽を作り出す熟練、いわゆる迎合の一種だと定義されました。
そして、ある「知識」を持つ人に対してその事柄においての「知識」を無視した説得はありえない、例えば医術を心得た人に対して、医術の知識を無視してあるいはその知識に理論的にそぐわない説得はすることができない、
つまり「弁論術」とは「知識」のある人には通用せず、説得する事柄に対して自分も「知識」があるか、物事を全く知らない人にしか有効でないとソクラテスはいいます。
「迎合」というまやかし
大きく分けると、
魂(内的なもの)のための技術として、政治術(立法術と司法術)
身体(外的なもの)のための技術として、(体育術と医術)があり、
「正義」、「節制」、「勇気」など、「善」を目指すのが魂における徳であり、「健康」という「善」を目指すのが身体における徳であるといいます。
また、基礎的なあるいは根本的な剛健さつくるという面において、立法術は司法術に勝り(司法(裁判)を用いずに済む法整備の国家の方がいいため)、体育術は医術に勝る(もともと健康な体に医療は必要ないため)とし、そのため立法術は体育術に対応し、司法術は医術に対応するといいます。
そして、「迎合」というまやかし(熟練)は、この4つの技術(立法術、司法術、体育術、医術)の下に潜り込み、喜びや快楽によって「善」を忘れさせるとソクラテスはいいます。
身体の技術いわゆる「体育術」と「医術」において、
「体育術」に忍び込む「迎合」が「化粧術」であり、「医術」に潜り込む「迎合」が「料理術」。
「化粧術」は偽りの「美」を作り出し、「体育術」による身体本来の「美」を忘れさせる、どうしたら美しく見られるかという記憶による一種の熟練であり、
「料理術」は「健康」という「善」(本質、真実)を無視した、どうしたら食べ物が美味しくなるかという記憶による一種の熟練である。
魂の技術である「政治術」(「立法術」と「司法術」)において、
「政治術」に忍び込む「迎合」これが「弁論術」であり、この「弁論術」がもたらす、本質を無視した説得や一種の動機づけ(快楽)によって、人々は「正義」、「節制」、「勇気」への志を忘れてしまったといいます。
「美しさ」と「醜さ」
一般的に「美しい」や「醜い」といわれるものについて、
「美しい」といわれるのは、「有益さ」あるいは「快楽」またはその両方を人にもたらすからであり、
「有益さ」としては、健康や身体性に優れた所作、運動など、「喜び・快さ」というよりは「有益さ」いわゆる「有用性・善さ」という側面において人々は「美しい」というと思います。
「快楽」としては、目鼻立ちの整ったきれいな人を見る時や、容姿端麗な人を見る時、「有益さ」というよりは「喜び・快さ」いわゆる「快楽」の側面で人々は「美しい」というと思います。
一方、「醜い」といわれるのは、「有害さ」あるいは「苦痛」またはその両方を人にもたらすからであり、
「有害さ」としては、むごい犯罪行為や損得感情のみの他人を陥れるような行動を人々が目にしたとき、「苦痛」というよりは「有害さ」いわゆる「悪さ」という側面においてに人々は「醜い」というと思います。
「苦痛」としては、病気による激しい痛みや苦しみを味わった時や、または事故によるそれを味わったとき、「有害さ」というよりは「苦痛」の側面で人々は「醜い」というと思います。
簡潔にまとめると、
「美しさ」とは、「有益さ」あるいは「快楽」またはその両方を人にもたらし 、
「醜さ」とは、「有害さ」あるいは「苦痛」またはその両方を人にもたらす。
さらに、「有益さ」は「善」であり、「快楽」は「善でも悪でもない」
また「有害さ」は「悪」であり、「苦痛」は「善でも悪でもない」とソクラテスはいいます。
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