プラトン著『国家』 正義について6 (4元徳、魂の3部分)

ソクラテス(プラトン著)

完全な国家

僕たちが想定している完全に徳を具えた国家が成立したと仮定したとき、その国家には四元徳と言われる

正義・知恵・節制・勇気

この4つがなくてはならないといいます。

知恵」とは知識を駆使する能力であり、知識には様々なものがある。この時代においては、農業の知識や建築の知識、数学の知識など何かを作るための知識や何かを為すための知識など様々なものがあります。

では、国家において何よりも重要な国家を守るための知識あるいは最善の国家を保全するための知識はどのような知識なのか。それは、種々雑多な知識ではなく守護者の知識であり、先ほど出てきた神的なを持つ人の知恵、特にを持つ人の知恵であるといいます。

よって、完全な国家における知恵とは、大衆(銅や鉄)が持つ知恵ではなく、ごく少数の人が持つ知恵であり、このごく少数の人々が持つ知恵によって全体として知恵のある国家となるといいます。

勇気」とは、ある知識や規範の保持であり、今まで自分が培ってきたあるいは培われてきた品性によって、どんな苦しい状況や恐ろしい状況に置かれていたとしても、ある知識や規範を守り通すある種の保持的な力であるといいます。

「魂を売る」という言葉があると思いますが、これは何かしらの損得感情により自分の中にある優れた考えや規範を捨てる時に使われる言葉であり、保持的な力いわゆる勇気を失う時に使われる比喩的な表現であると言える。

つまり勇気とは、屈強な精神力によって自分の中にある愚かさに自分が支配されるのを退け、自分の優れた部分を保全・保持しようとする力であるといえます。

節制」とは、調和協和あるいは秩序であり、よく耳にする「自分に勝つ」という言葉について考えてみると、これは自分の中にある愚かな部分を自分の中にある優れた部分が支配し打ち勝とうとする状態であるといえます。

自然の法則から考えてみると、世の中は劣ったものは多く優れたものは少ない

理性(優れたもの、少ないもの)によって欲望(劣ったもの、多くのもの)を支配し、ある欲望やそれによる快楽・苦痛は許し、種々雑多な欲望には歯止めをかけそれによる快楽・苦痛は排除する、というように節制とは欲望と無欲との調和であるといえる。

また、国家規模で考えてみた時に、支配する人々と支配される人々は能力は違えどある種の(卑屈な)感情を抑えてお互いに尊重し合い同じ考えを持つならば、その国家には協和が生まれ共同性が生まれるといいます。

正義」とは余計なことに手出しをしないことであり、正義の名の下に行われる裁判自分のものを奪われないようにする、また相手のものも奪わないようにするものであり、それは物質的なものあるいは精神的なものにおいて各々他人のものに余計な手出しをしないという契約上の判決を下すことです。

そしてさっき言っていたように、優れた守護者(を持つ人)以外の人が思い上がった末に支配者になったり、またその逆もしかりなど自己の自然本来の仕事に専心することを止めてはならないということ、余計なことに手出しをしないことが正義であるという結論に至りました。

国家の正義から個人の正義へ

正義とは何かを知るにあたって「個人」よりも規模の大きいものとして「国家」を挙げ、国家規模の正義について考えた方が個人規模の正義よりも分かりやすいのではないかと考えた。そして優れた国家にこそ最もよく正義は存在すると想定し完全な国家を想像の中で建設した。

そして国家の正義とは、各々が余計な手出しをせず自分のやるべきことに専心している国家だということになった。では、個人の正義とは何なのか。他人や他のものに余計な手出しをしないことではなく、自分に対して自分自身が余計な手出しをしないとはどのようなことなのか。

優れた国家には、知恵・勇気・節制・正義があると言っていました。では、優れた人はこの国家と同じようなものを個人の中に持っているということでしょうか。

魂の3部分

人間には色々な人が存在し、学問好きの人、気概のある人、お金好きの人など様々存在する。つまり、1個人において内的なあるものによって学問が好きになり、あるものによって気概に駆られ、あるものによって金銭欲の強い人間になる。
好きという感情は欲望・欲求から発生するものであり、人間の原動力は欲望・欲求によるものが大半である。

では、人間の動向を客観的に見てみると、欲望・欲求に駆り立てられている人間欲求の対象物がある。例えば、お腹が空いている時には食欲によって駆り立てられる人間と欲求の対象物である食べ物が存在する。サッカーがしたい時には、サッカー欲に駆り立てられる人間と欲求の対象物であるサッカーが存在する。何かを学びたいと思った時には、知識欲に駆り立てられた人間とその対象物である知識が存在する。

これらは単純な欲求の相関関係である。

ある人間の欲望・欲求対象物の相関関係は、人間の欲望・欲求に何かが加わるとその対象物は変化する。例えば、食欲についていえば、暑い日には冷たくてさっぱりしたものが食べたくなったり、寒い日には温かい食べ物が食べたくなる。単純にサッカーをしたいだけなら公園で何気なくサッカーをするし、本格的にサッカーをしたくなったらコートを借りてスパイク履きサッカーをする。
このように、欲求が複雑化すれば対象物も複雑化する

ただ、欲求によって人間が駆り立てられるとき、人は内的な面(魂)においてある一つのものへと強く向かうお腹が空いている時には勉強したいと思わないし、サッカーをしたいときに勉強なんてしたいと思わない。しかし、テスト期間や受験の時などには、勉強しなければいけないという気持ちも自分の中に小さく存在している。

では、ここでは自分の内には2つのものが存在しているといえる。1つは人間の内に大きく存在する欲望・欲求に素直な部分非理知的(欲望的)な部分)であり、もう一つは人間の内に小さく存在する真実を追求する部分(理知的な部分)である。

しかしそれだけではなく、欲求を複雑化させたり強力にさせたりするもの、あるいは欲求を単純にしたり強く禁じたりするものが存在している。例えば、食欲という単純な欲求に対しておいしい食べ物が食べたい、温かい・冷たい食べ物が食べたい、お腹いっぱい食べたいなど欲求を複雑化させ強力にする部分、あるいは質素な食べ物で満足し端正な生活を心掛け、欲求に歯止めをかけて健康などに気遣う部分

つまり、ある時には非理知的な部分に加勢し、またある時には理知的な部分に加勢する部分がある。この部分は各々の部分(非理知的(欲望的)な部分あるいは欲望的な部分)に活力をもたせるものであり、この部分を気概的な部分とする。

以上、人間の内的なもの(魂)には、3つの部分が存在する。非理知的(欲望的)な部分・気概的な部分・理知的な部分であり、非理知的(欲望的)な部分銅や鉄気概的な部分理知的な部分に対応する。

そして、この3つの部分において各々がやるべきことのみをやり、余計なことに手を出させないことが個人の正義なのではないかという結論に至りました。

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