はじめに
この著書には、なぜ魂というものが肉体とは別に存在すると考えられているのか、そして魂とはどのようなものだと捉えられているのか、こういったことが「思考」によって抽象的にではあるが具体的に述べられています。
これを読めば、もしかしたら今まで「魂」というものを全く信じていない、あるいは興味を持たなかった人も、魂というものの存在を少し信じてしまう、興味を持ってしまうかもしれません。
この著書で主に述べられている題目は以下のものです。
これは、ソクラテスが死ぬ直前に語られたことを、そこに居合わせたソクラテスと親しい仲である者(ケべス、シミアス、パイドンなど)の内の一人である「パイドン」という人が、そこで行われた議論をそこに居合わせなかった人(エケクラテス)へ向けて語り、その語った内容がこの著書としての内容です。
哲学者の「死」のとらえ方
・自殺は許されないことである
オルフェウス教(紀元前に存在したギリシャの宗教、宇宙の起源や神々の系譜を説き、禁欲(ストア)的な苦行を行っていた。)の中で、「人間は牢獄(肉体)の中にいて、そこから自らの手によって解放(自殺)し逃げ出してはならない」と語られている。
そして「人間は神々の所有物であり、つねに神々は人間に配慮(善いこと)をしている」とソクラテスは言いました。
その所有物が、所有者から逃れようと自分勝手なこと(自殺)をしたら、神は怒り腹を立て、何かしらの処罰を下すだろうと。
そのため、運命が自分を解放してくれる(殺してくれる)まで、つまり神の意図による解放まで、その生を全うしなければならないと言っています。
・哲学者は喜んで死を待ち望む
哲学者は、「喜んで死を待ち望む者である。」とソクラテスは言います。
しかし、神々は人の所有者であり、神は人を善く導くのなら、神の所有から逃れる「死」というものは、人を「善さ」から解放するということでもあり、人が神の所有者であった時よりも悪く導かれてしまうのではないか、それなら哲学者は「死」を嫌わなければならないのではないか、とケべスはソクラテスに反論します。
しかし、ソクラテスは言います。
もしも、真の哲学者(思慮を十分にした人、*「知」とは「有益さ、善さ」をもたらすため、思慮を十分にしたということは善いことを十分にした、神の所有物として生を全うしたということになる。)が運命によってこの世を去る時(魂のみになった時)、以下の2つのことが起こるだろうとソクラテスは言います。
(*なお、悪く(不正、放埓に)生きた人々にはまた別の運命が待っていると、古くからの言い伝えでいわれている。)
1、この世を支配する神々とは違う、より賢く・善い神々のもとへ行く。
2、この世の人々よりも優れた、死んだ人々のもとへ行く。
この2つ以外のことが起こると思っていたら、自分(ソクラテス)は「死」に対して憤慨しなければならないと、
しかし、この2つのどちらかが起こると本気で信じているから、哲学者ないしソクラテスは死の直前だというのに全く落ち着いている、「死」を望んでいる者が死の直前になって慌てふためき怯えるのは、非常に滑稽で馬鹿げたことだろうといいます。
よって、以上の2つを確信しているソクラテスの「死について」および「魂の性質について」の証言が「パイドン」の主題です。
以下にそれらを紹介していこうと思います。
これを読めば、死についての恐怖が和らぐ、あるいはあまり良くないことなのかもしれませんが、「死」というものに興味が湧いてしまうかもしれません。
真の哲学者が、「死後に最大の善を得る」という希望を持つ訳
真に哲学に携わる人は、死ぬこと以外何も望まない者だとソクラテスは言います。
その理由として、先ほど述べた2つのこと、
1、この世を支配する神々とは違う、より賢く・善い神々のもとへ行く。
2、この世の人々よりも優れた、死んだ人々のもとへ行く。
を信じているからであり、そのためなるべく不正を行わない・魂を汚さないでこの短い生を終えようとするためだと考えられます。
つまり哲学者は、「死」というものを常に練習していると、
肉体から離れ「魂」のみとなった時を想定し、その時の魂がいかに純粋・潔白な魂であるかを望むため、この短い生による不正や悪い快楽によって魂が汚されることを恐れ、魂を配慮し節制を心がける者であるといえます。
そしてその究極が、死に近い状態、つまり禁欲(ストイック)を心がけ、魂の性質と似たイデア界のことを考える、魂のみになった時(知性のみになった時)のことを想定することであり、これがソクラテスがいう真の哲学をしている人の態度だといえます。
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