名馬ブケファラスを手なずけるのはどんな名人にもできなかった。しかしアレクサンドロスにはそれができた。理由は簡単。手なずけられない理由つまり「この馬は自分の影にひどく怯えている」というピン(原因の本質)を探し出したからだ。馬の鼻を太陽へ向けたまえ。
人間はいらいらしている時や不機嫌の時、かなり説得力のある理屈で自分の不幸の原因を嘆く。その嘆きによって自分は自分に容易に騙され、自分によってその不幸をさらに大きく育てている。
冷静になってピンを探すこと。不幸の解決策は、強い論拠で恐怖をやっつけることではない。落ち着いてピンを探すことだ。
この本を読んで、幸福、そして人生についてかなり考えさせられました。大半の日本人は自分の時間という貴重な財産をほぼすべて金稼ぎに注ぎ込んでいるように思うし、それが当然のような固定観念を持つ人が多いと思う。「生きる」ことへの学びは重要視されていない。しかし、この学びに人生の本質あるいは人間の本質があると僕は信じています。
不幸という壁にぶち当たった時、日本人は実に脆い。「生きる」という学びが足りないから。僕も非常に貧弱でこの性状を変えたい限りです。その僕にとって、この本はとても魅力的に感じました。
今まで僕が歩んできた人生では、不幸なことがあっても、その時々で解決策を見い出そうとし、不幸の根本的な原因には目もくれなかった。大抵不幸を解決しようとするとき外的要因つまり物質的な解決に努める。しかし、不幸は絶え間なく襲ってくる。この世界は不幸で溢れているから。この事実は受け止めなければならない。そして、不幸の解決策に関するピンは自分の外には無いことが分かった。それなら、この不幸を感じている内的なものに目を向けることでピンの捜索に努めるべきだ。人間が追求すべき「幸福」を手に入れるために。
以下にはピン探しの材料となるアラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)の重要な教えを自分なりに抜粋し、それに基づいた解釈や感想を端的に述べていきます。
いらだちの解決法
われわれの病気は情念によってもっと悪くなる。それがほんとうの体操を知らなかった者の運命である。
激怒の発作に駆られてからだの自然なリアクションの邪魔をしないこと、ただそれだけの問題である。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
ここでいう病気はいらだちを意味しており、情念とは「理性(道理を考える能力)ではどうにもならない心に湧き付きまとうもの」である。
いらだっているときは、いらだっている人の考えや動作に誰もが捉われているし、その状態をほとんどの人は維持しようとする。舌打ちしたり、ものに当たったり、激しい口調になったり、貧乏ゆすりしたり、咳ばらいしたり、悪口を吐いたり。
しかし、こういう時にこそ自然なリアクション(正しい理性による体の支配)を心がけるべきだということ。体の力を抜くこと。
「いらいら」は自分の理性ではどうにもならないことは知っているはず。また、その状態は決して自分を幸福にしないことも。
それならば全身の力を抜き、いらだちとは程遠い状態になること、いい意味で自分の感情に無関心になること。それが冷静になる近道、いらだちを抑えるピンであるということだった。
身体と精神
しあわせだとか、不幸だとかいう理由には価値がないのだ。からだと、からだの働きですべてが決まってくる。
妙なる精神はいつも、悲しいときには悲しい理由を、陽気な時には陽気な理由をうまく見つけるものだ。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
この考えは単純に見えますが、僕は理解していませんでした。
悲しいから悲しい考えに陥るし、不幸だから体調が優れないと思っていたからです。この逆転の考えは僕を確かに楽にしてくれました。
どうにもならない時は、あまり考え込まず時間に身を任せればいいと思えるようになったからです。
幸、不幸は人生において絶え間なく変動します。だからこそ、不幸に嘆くのではなく、その不幸を笑いながら再び必ず訪れる幸せを待つ。この教えこそ広まるべき不幸の治療法の1つだと僕は思いました。
情念という病気
情念にとらわれた者は、自分を病人と判断することができないので、自分は呪われた者と思いこむ。この考えはどこまでもどこまでも伸びていき、自分自身を責めさいなむ。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
常に激しい恐怖と悔恨を抱いている(情念にとらわれている)状態は病気だということです。
風邪は、自分の理性ではどうにもならないことは周知の事実です。しかし、情念という病気に関しては、人はあれやこれと無意味な思考を繰り返し無理やり解決しようと(完治させようと)する。だがそれは歴とした病気のため、当然自分の頭ではどうすることもできないし解決できない。正しい治療法によってのみ治癒が近づくのです。
ただ、それを病気だと考えられない人は、そのどうすることもできない苦しみ故にさらに病気を悪化させる。風邪を引いているときはベッドで安静にしているだけで良いものを、無理やり外に出て激しい運動をするかの如ごとく。
ここではピン探しの重要性が顕著に分かる。
情念を患っているのは身体の機能である。身体が動揺しているだけなんだ。だから、風邪の時にベッドで安静にするように、身体の緊張をほぐせばいい。微笑んだり、あくびしたり、ストレッチしたり、散歩したり、筋肉の痙攣を和らげるような運動によって。適切な治療法によって。
想像力の危険性
想像力という奴は、中国の死刑執行人よりももっと性がわるい。奴は恐怖の量を塩梅するのだから。われわれがグルメのように恐怖を味わうようにさせるのだ。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
即死した自分には、何も考える暇はなかったはずです。
事故にあった瞬間の痛みや苦しみをリアルに頭の中に描き、その恐怖を疑似体験しているのはいつだって自分の想像力によるもの。また事故に限らず、あらゆる恐怖心を抱かせるのもこの厄介な想像力によるものです。
未来を確実に知ることは人間には不可能です。現在の自分は未来のことを想像しかできません。
しかし、未来を作り出すのは1瞬1瞬の現在を捉えた自分です。それならば悲観的な未来を想像し、悲観を演じるべきでない。現在のことのみを考え、1瞬1瞬の現実を良い方向へと向ける努力をするべきです。
悲観的になっても誰も助けてくれないという事実を賢い人なら知っているはず。
それなら、どんなに不幸な未来しか想像できなくても微笑んでいた方が、少しはいい未来が待っているはずです。
そして、その1つ1つの現在の積み重ねが、悲観を演じることを忘れてしまうような幸せな未来へと導いてくれると僕は思いました。
理性の無力さ
失礼なことをされた人は、まず侮辱を確認するためにいくつもいくつも理屈をこねる。事態をますます悪くする事情をさがし、それを見つける。先例ををさがし、見つけるのだ。
これが第一段階。続いて理性の番だ。
なぜなら、人間というのは驚くほど哲学者なのだから。理性は情念に対して何ひとつすることができないということだ。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
人間は不幸な事があると必ず理屈や意味を追い求める。自分の過去の経験と上手く結び付けてさらにその出来事を最悪にする。
しかし、その行為によって生まれるのは不幸だけだと断言できます。
その想像力が行き着くのは2つ。不幸な出来事の原因を自分の解釈(過去の経験)と上手く結び付けられるか否かだ。しかし、この2つの道のどちらに行きついても決して幸福にはなれない。
上手く結びつけることができた時の怒りや絶望ははかり知れないほど大きいし、結び付けられなかった時は理解できない恐怖に酷くおびえるから。
このように、情念は理性ではどうにもならない。
しかし、この事実を知ったという学びはとても大きいはずです。
考えるよりも超自然的な解決。つまり運動すること。筋肉を和らげるしぐさをすること。これが情念との適切な戦い方であり、自分を助ける唯一の方法だと思われます。
どうすることもできないことは、どうやったって解決できない。その事実を自覚し、どうにかできる手段を見つけ出す力を持つこと。
これは根本的な解決法だと思われるが、あまり使われてない解決法だとも思えた。この実用的な解決法をもっと使うべきだと僕は思いました。
自分という最大の敵
どんな人でもこの世の中に自分よりもおそろしい敵は見つからないのである。
狂人のなかにわれわれが学ぶべきものがあると、ぼくは考えている。あのおそるべき思い違いを、彼らはわれわれに拡大して見せてくれる。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
ひどく感情が高ぶり、苛立つ状態を維持することは、自分を傷つける階段を上っていくことだ。
興奮して怒っている時には、自分が苛立っている根拠を自分自身でこれでもかと見つけ出し、様々な理屈を考え、自分の想像や被害妄想をとことんふくらまします。
これは、自分で自分に苦痛を与えることに専念していると言わざるを得ない。
では、今までを考えてみてほしい。いらいらによって解決した苛立ちがあるでしょうか。少なくとも僕は無い。
いつも時間による忘却によって解決されている。
過去の苛立ちも現在においては微かなものであり、思い出すのも一苦労なものとなっている。
つまり、無関心が怒りの最良な解決策だということができる。
無関心になって、怒りが過ぎ去るのを待つことが賢い人間のやり方だと言え、「興奮する自分」の行動は今そして未来の自分にまで悪い影響を及ぼすことしかしない。
人は度々「悲劇役者」になり替わる。思い出の中のあらゆる侮辱や屈辱を探し出し、自分をさらに痛めつけ、真実を最悪の方へと向ける。
喜びさえも疑うようになり、不機嫌のみを正当化する。その悲劇を演じている自分を自分で判断するため、悲劇の真実味は増すということ。
人はいつでも希望を目指すべきです。喜びがあるから嬉しいのではなく、自分が嬉しく振舞うから喜びが生まれる。つまり、悲観ではなく幸福を演じることによって本当の喜びが生まれ、その喜びこそ様々な出来事を良い方向へと導く希望なのだということです。
被害妄想に捉われ、悲劇役者を生涯演じきった成れの果てが、よく分からない病変に体中が侵された狂人である。悲観が美徳だという恐ろしい思い違いの反面教師と見て取れるだろうといっている。
馬の馭者
ものを決定するのはわれわれではない。われわれはいつも方向を与えてやるだけだ。勢いのついている馬の首を向けなおす馭者のようなものだ。
なされてしまったことについては、それに安じ得ることほどりっぱなものはなにもないし、それを繕えないほどみにくいものもない。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
人生は気づいた時には出発していて、天性と環境の結果今の自分が存在している。
赤ん坊や幼少期のころから自分であれこれと人生の計画を立てられる人間は存在しないから。まずは行動して、その過程で今の自分という存在を形成してきた。
生まれた時に出発したその馬は今も絶え間なく走り続けていて、この先も死ぬまで止まることは無い。今、どんな運命の最中に居ようとも馬の軌跡は変えられず、この先も走り続ける。
天性や環境はどうしたって変えられないし、それを憎んだところで何も変わらない。
しかし、首を向けなおすことは今からでもできる。馬と喧嘩せず仲良くなり自分の好きな方向へと首を向け直せれば、それに向かって馬は走り続けてくれる。
自分の気に入らない部分をとやかく言っても何も変わらない。だったら、今自分が向かっている方向を見つめ直し、自分を本当の希望へと導く方角に首を向けなおす。このことに精一杯努力するべきだし、これほど立派な行為はない。
今までの人生の軌跡、必然が自分にとって満足だったいえる人ほど幸福な人はいないだろう。
自発的な行動の大切さ
自分の意志で労苦をつくり出すやいなや、ぼくは満足する。
もらいものの楽しみは約束どおりのものなどけっして与えてくれない。反対に、行動する楽しみの方は、いつも約束以上の楽しみを与えてくれる。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
マラソンが好きな人は、走るという労苦がすきだ。走ることに興味が無い人には考えられないし、それを強制させられた時には拒絶をするだろう。
人間は自発的になれる労苦が好きといえる。マラソンが好きな人も、最初は好きではなかったはず。走ってみてつまり行動してみてその楽しみを感じ、走ることが好きになり、走ることに対して自発的な理性が目覚めた。
ここから、走ることに対して前向きな感情が生まれ、その楽しみを求めてこの先も走り続けるのだと思う。
RPGゲームで主人公を強くすることを目指す人は、最初から強い主人公なんて望まないはず。強くしていく過程が何よりも楽しいし、それがゲームの醍醐味だから。
つまり人間は、自分で手に入れる運命が好きだということ。このことから、「幸福」は遠くに待っているものではない、行動によって生まれるものだといえる。
怠けていてはだめだ。「幸福」はどこからともなく降ってくるものではない。自分の行動によって作り出す、またはつくり出されるものだから。
ぼくの考え方は大きく変わった。目標を達成するために行動するのではなく、行動を起こすきっかけを作るために目標を立てると。「散歩をするために家を出るのではなく、だらだらしてしまう家から出るために散歩をする」といった感じに。
この考えに変えてから驚くほど怠け癖が取れ、人生において楽しいと思える瞬間が前よりも増えたような気がします。
そして、散歩が楽しい僕にとって散歩の期待値を0にして家を出ることが何よりも大切。
人間は「行動」において、期待していた時よりも、期待していなかった時の方が、楽しさの度合いはかなり大きいと僕には思える。楽しみにしていた遠足よりも、行きのバスで不意に友達とやるトランプの方が楽しいように感じます。
これは受動的な行動よりも自発的な行動を人間が好む証拠のように僕には理解できました。
遠くを見ること
自分のことなど考えるな、遠くを見るがいい。
アラン著 神谷幹夫訳 『幸福論』(岩波文庫、1998年1月16日第1刷発行・2018年4月16日第34刷発行)
大自然を見るとなぜか嫌な事がちっぽけになる感覚がある。自分の存在がちっぽけに思え、さらにそれよりも小さい自分の悩みなんて考える価値も無いから。
自分の存在を忘れて大自然に見惚れる。これはとても幸せな人間の性質だと僕は思う。
そして、自分はいつも自分と近すぎる。
どんなに仲のいい友人であろうと、四六時中一緒にいるのは結構な苦痛のはず。たまには遠ざかることも大切。
近すぎると多くのものが見えなくなり、その代り映えのない景色にうんざりする。ストレスがたまる。鬱陶しくなる。
行きづまっているときは大抵自分と距離が近すぎる、自分を見る視点が近すぎる、自分が鬱陶しいのだと思う。
大自然に見惚れるように遠くを見る、自分と距離をとる。
そして自分(親友)と一旦距離を置き、すっきりとした新鮮な状態で再開する。そしたら、距離が近すぎた時には見えなかった色々な自分の良いところが新たに見えるかもしれない。
この解決法はとても重宝するものだと僕には思えました。
まとめ
「幸福」とは何なのか。
正体は明確に分からないが、それは確かに人間を満足させ、幸せにする。そしてこれは「行動」によって生み出されるということが分かった。
その過程さえ分かれば怠けている暇はない。行動するための有意義な目的を立て、それに向かって精一杯一日一日を生き、その労働による心地いい疲労によって快眠を得る。
果たしてこれは目指すことが難しいものなのだろうか。いや、誰にだって挑戦できることだろう。そしてこれは現在を大事に生きることへとつながる。充実した人生のサイクルがつくられる。
「豊かな感情」がこんなにも湧き出てきていいのだろうかと思う時もあるほど、行動とは、幸福とはすばらしいものだ。それだけでは収まらず、この溢れる豊かな感情は溢れるがゆえに他の人にも分け与えたくなる。それが優しさの理想の形だと僕は思う。
「行動」。この単純な言葉に、幸せのピンが隠されているとは思いもしなかった。
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