國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』 (環世界) 

人生

環世界

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人の「環世界」の概念が紹介される。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、19世紀末から20世紀初頭に活躍したドイツの生物学者・哲学者です

環世界:各生物はそれぞれ独自の知覚と行動の枠組みを持ち、それに基づいて世界を体験している。つまり、同じ世界にいても、「各生物では見えている世界(時間と空間)が異なる」という考え方。

まず、日向ぼっこするトカゲが出てくる。

日向ぼっこするトカゲは、岩の上に乗り温かい太陽の光を浴びている。しかしトカゲは岩、太陽、自分をそもそも認識しているのか。人間は言葉による選別によってそれらを分けて認識しているが、トカゲの世界ではどうなのかそもそも人間には分からないし、ハイデガーは認識できないといった。

そのため、ハイデガーは人間を「世界形成的」(岩、太陽、トカゲを認識・形成する)といい、人間以外の動物を「世界貧乏的」だといった。

次にマダニの例が出てくる。

マダニには、視覚と味覚が無いといいます。非常に鋭敏な嗅覚と触覚しかなく、哺乳類が放つ酪酸の匂いに反応して枝から落下し、体毛の薄いところから吸血を始める。

よってマダニの世界は、人間が普通に想像するような世界観では、具体的に理解することは全くできないといいます。

・酪酸の匂いに反応して枝から哺乳類にダイブする→哺乳類の体温かどうかを感覚する→体毛の少ないところをさがす→吸血を始める。

これらの過程によって形成されるのがマダニの世界、いわゆるマダニの環世界だと考えられるといいます。

時間

時間」とは何か、これは非常に難解な問題だとされています。

時間」とは絶対的なものなのか相対的なものなのか、そもそも人間が作った概念に過ぎないのか。これらについての議論は非常に多くあります。

しかし、ユクスキュルは結論を出します。時間とは「瞬間の連なりである」と。

人間の「瞬間」は18分の1秒(約0.056秒)だそうで、この「瞬間」の連なりが人間の「時間」であるといいます。
これは、映画のスクリーン映像による分析結果であり、18分の1秒以内に起こっていることは人間には分からないのだそうです。

そしてこれは視覚だけでなく他の器官でも同様であり、例えば触覚においても1秒間に18回つつかれても、人間はつつかれているとは感じずにずっと触られているという感覚になるのだそう。

つまり、「人間にとっての時間」は18分の1秒という「瞬間」の連なりであり、主観的で相対的なものだといいます。

相対的である理由は、他の生物の「瞬間」はそれぞれ違うからであり、この本ではべたという魚やカタツムリが例として紹介されており、べたは30分の1秒という人間よりもはやい「瞬間」の連なりを生きていて、カタツムリは3(4)分の1秒という人間よりもおそい「瞬間」の連なりを生きている。

つまり、ユクスキュルのいう「時間」は、生きた主体による主観によって作られるものであるといえます。

空間

各々の生物の空間認識に関して、人間においては主に「見ること」によって認識する。しかし、視覚をもっていない生物は聴覚や触覚などを駆使して、人間とは全くちがう仕方で空間を認識している。

例えば、イルカは視覚能力が乏しいが、自ら超音波を出しその反響を受け取ることにより、数十メートル先の空間まで認識できる。

この本にはみつばちが例として出てきますが、みつばちは視覚よりも触覚が頼りになる感覚であるそうで、実験として、みつばちの住処である巣箱をみつばちが外出している間に2メートルずつ動かすと、みつばちは2メートルしか離れていない巣箱に戻ることはせず、元の巣箱があった位置を5分ほど旋回した挙句、やっと巣箱を認識し戻っていくそうです。
人間とは違い、視覚よりも触覚を優先していることがわかる実験です。

各々の生物はそれぞれの世界を生きている。「環世界」は、人間が主観的に想像するような客観的な世界ではなく、それぞれの生物の主観によって形成される世界だといいます。

人間は世界形成的?であるがゆえに、それぞれの生物の世界まで都合よく作って理解してしまう。

しかし、世界の認識の仕方も感じ方も時間の在り方も、各々の生物にとってどのようなものか分からない。想像する・認識するというのも、所詮人間の環世界の中の過程なのかもしれない。

このように、各々の生物の完全な主観の世界、これを「環世界」と呼ぶそうです。

ハイデガーのユクスキュルに対する批判

ハイデガーは「環世界」を批判します。どうしてか。

人間も動物も違う「環世界」を生きているだけだということを受け入れたくないからです。人間とは特別であり、それゆえに他の生き物が持ちえない「自由」を持つと主張したい、また「自由」を持つがゆえに退屈すると言いたいためだといいます。

だから、動物を「世界貧乏的」といい、人間を「世界形成的」といった。
トカゲは岩を岩として認識せず、岩は上に乗るためのものでしかない、太陽を太陽として認識せず太陽は体を温めてくれるだけのものでしかない、しかし人間は「物そのもの」を認識できるとハイデガーは言います。

人間は岩を岩として認識し、太陽を太陽として認識する。マダニは哺乳類を待っているのではなく酪酸の匂いを待っている、人間のように言葉によって排除・選別して認識せず、感覚を受け入れて行動するだけ、何かに「とらわている」だけだといいます。

「とりさらわれ」(駆り立て)と「とらわれ」

みつばちが、この例えとして出てきます。

みつばちは、花から蜜を吸い上げ、蜜を吸い上げ終えたらその花から飛び立つ、これはみつばちの普通の習性だと僕たちは考えます。しかし、ハイデガーはこれは普通ではないといいます。

「物そのもの」を認識できない人間以外の生物(みつばち)が、なぜみつを吸い上げ終えたと認識できるのか、そしてそのことを認識してなぜ飛び立つことができるのか、これがハイデガーにとって疑問だからです。

ハイデガーはある実験を行います。みつばちが一気に吸い上げられないほどの蜜を皿いっぱいに用意し、みつばちに吸わせる。すると、しばらくしたところでみつばちは蜜を吸うことを止めて飛び去る、これは容易に想像できます。

もう一つの実験を行う。みつばちが蜜を吸い上げている時に、腹部に切り込みを入れ、蜜を体内に貯められなくするという実験です。
当然、吸い上げている蜜はお腹からドクドク出て、吸っても吸っても蜜を体内に貯蔵することができない。このことに諦めてみつばちは蜜を吸うことを止め飛び去るのかと思いきや、みつばちは蜜をずっと吸い続けるといいます。

みつばちにとっての飛び去るというシグナルが「満腹」だからだそうです。このことから、ハイデガーはみつばちは「蜜そのもの」を認識しているのではなく、蜜を吸って満腹になるという過程に「とらわれている」といいます。

みつばちは蜜を吸うことに「とりさらわれ」(駆り立てられ)、蜜を吸うというシグナルと満腹になって飛び去るというシグナルに「とらわれている」。このシグナルによってプログラム的にのみ動くのが動物であるとハイデガーはいいます。

「とりさらわれ」(駆り立て)とは、何かの衝動によって突き動かされることであり、「とらわれ」とは一種の麻痺状態であるとハイデガーはいいます。動物は「物そのもの」を認識せず、「とりさらわれ」(駆り立て)によってのみ行動し、この「とりさらわれ」(駆り立て)「とらわれている」といいます。

一方、人間は「物そのもの」を認識でき、何にも「とらわれていない」自由な存在であると。動物は「世界貧乏的」であり、人間は「世界形成的」であるといった、特定のシグナルのみを受け取り行動する動物とは違い、世界を認識し選択・行動できる「自由」を持つ人間だからこそ、人間は退屈するといいます。

だからハイデガーは人間に環世界を認めない、「環世界」は「とわわれた」存在である動物しか持ちえないと考えたいから。

しかし、著者はいいます。なぜ人間は「物そのもの」を認識できていると断言できるのか、「物そのもの」とは何なのか。

僕たち人間が認識出来ていると思っている「物そのもの」は、もしどこかに人間よりももっと知的な生物がいたとしたら、それは僕たちがみつばちを認識しているように、より知的な生物は僕たち人間を見て「物そのもの」を認識出来ていると勘違いしている「とらわれた」存在だというかもしれません。

ハイデガーは無理をしていると著者はいいます。人間はとらわれていない自由な存在であり、だから退屈する、こう結論付けたいがために、人間に「環世界」を認めないという無理をしている。
環世界は、何かに「とらわれている」動物のみが持つものだと言いたいからです。しかし、動物には動物の、人間には人間の「環世界」があるといえるのではないか。こう著者はいいます。

環世界移動能力

しかし、ハイデガーが言っていること全てを斥けるのは愚策だと著者はいいます。

人間と他の生物では確かに大きな違いがあります。「環世界」を動物にも人間にも認めた上で考えた時、人間の「環世界」と他の生物の「環世界」は確かに大きく異なる。

人間にみつばちやマダニの「環世界」を体験することは不可能だし、ダニやマダニが人間の「環世界」を体験することは不可能です。しかし人間は、同じ人間という生物であるにも関わらず、様々な「環世界」が存在すると言える。

例えば、この本では宇宙物理学や天文学者が例として出てくるのですが、宇宙物理学者には宇宙物理学者の、天文学者には天文学者の「環世界」があり、2者が太陽を見た時、前者は鉱物学的に、後者は天文学的にそれぞれ違った認識で太陽を見られることになるといいます。
その他にも、音楽家やサッカー選手、サラリーマンなど、各々の人間には同じ人間なのにも関わらず、違う「環世界」が存在する。

これは、他の生物では考えられないと思います。これらを踏まえて考えた時、人間はダニの「環世界」を体験することは確かにできない、しかし今自分が存在する「環世界」から別の「環世界」に「移動」することは出来る。転職して別の職種につくことだって、勉強して学者になることだって出来る。

しかし、みつばちやマダニにそのようなことが出来るとは考えにくい。そうなると、人間は他の「環世界」に移動する能力が極端に高いと考えることができるのではないか、そう著者はいいます。これを、この本の中では「環世界移動能力」と名付けています。

では、人間だけに「環世界移動能力」があるのか。

そんなことは無いといいます。その例えとして、ユクスキュルの盲導犬が出てきます。

盲導犬とは、目が不自由な人を安全に歩くことが出来るようにサポートする犬です。盲導犬を一人前に仕立て上げるのはとても難しいといいます。犬自身の利益になる行動だけでなく、盲人の利益になるような「環世界」を犬に形成させなければならない。

これはとても困難ではありますが、実際に盲導犬がいるということは可能ではあります。ここから分かるのは、人間以外も「環世界」を移動する能力があるということです。人間もそれ以外の生物にも「環世界移動能力」はある、しかし人間のその能力は極端に大きいといえる。

この「環世界移動能力」を認めた上で考えた時、ハイデガーの退屈論を別様に展開できると著者はいいます。

人間には、環世界を無数に移動できるという自由をもつ、そのため一つの環世界に留まることに飽きてしまう、退屈してしまう。「環世界移動能力」が極端に高いからこそ人間はよく「退屈」する、「環世界移動能力」の大小によって、人間あるいは他の生物も「退屈」を感じるのではないかと著者はいいます。

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