「暇」・「退屈」の定義
・「暇」:客観的な条件。自由な時間がある。
・「退屈」:主観的な状態。つまらない。
「暇」と「退屈」は同じようなものだと、この本を読むまで僕は思っていました。「退屈だなぁ」と「暇だなぁ」は同じように使っていました。
しかし、この定義を基に考えてみた時と、この両者はかならずしも両立しないものだと理解しました。
僕が無職の時、自由な時間は沢山あるのにやることが無くつまらなかった。これは、「暇」であり「退屈」な状態だといえる。
今はほぼ毎日つまらない仕事(ブルシットジョブ)をしている。これは、自由な時間が無いのにつまらない状態、つまり「暇」ではないけど「退屈」な状態といえる。
そして、仕事で人生が充実している人。これは、自由な時間が無いのに退屈していない。よって、「暇」ではないけど「退屈」していない状態といえる。
最後に、「暇」ではあるけど「退屈」していない人。この例として、本書ではかつての貴族階級が取り上げられ、「品位溢れる閑暇」から経済学の視点で以下に「暇」と「退屈」について考えていきます。
経済学者ソースティン・ヴェブレン(1857-1929)の「有閑階級の理論」が紹介される。
「有閑階級」とは、かなりの財産をもち労働によって時間を奪われない「暇」を持て余している社会の上層階級、つまりかつての貴族のような存在あるいはそれ以降に出てきたブルジョアジーなどです。
そして、「暇」であることはかつては尊敬されていたといいます。労働することの無い自由な主体であるということは「力の象徴」だったといいます。
「暇」をアピールするために、使用人を雇いかつ使用人に金を費やし、使用人にまで金が行き届いているという「経済的余裕のアピール」=「力の誇示」これを「顕示的閑暇」とヴェブレンは呼んでいたそうです。
つまり、使用人は「暇」をアピールするための存在、「暇を遂行する存在」だったそうです。
「顕示的閑暇」の凋落
19世紀末~20世紀にかけて、有閑階級が落ちぶれたといいます。「暇」をアピールするために「使用人を使う」という身分の不平等さが社会的に見直され、富の再配分・階級差の是正が行われた。
その結果、使用人による「力の誇示」は有効性を失い、使用人ではなく「妻の消費」によって「経済的余裕のアピール」=「力の誇示」に変わったといいます。
「製作者本能」
ヴェブレンの掲げる「製作者本能」という言葉が出てくる。簡単にいえば、「効率主義的な本能」つまり「無駄を嫌う本能」です。つまり、人間には本来的に効率性を重んじる本能が具わっているとヴェブレンはいいます。
この本能、つまり「製作者本能」によって、ある時には「暇」・「経済的余裕」をアピールすることによって、またある時には「暇をアピールすることの無駄」・「身分の平等性」をアピールすることによって、その時代に適するように効率的に生きることが人間には本能として具わっているとヴェブレンはいいます。
次に、ドイツの哲学者テオドール・アドルノ(1903-1969)によるヴェブレンの「製作者本能」に対する批判が紹介される。
なぜヴェブレンは「製作者本能」が人間に元々内在しているというのか。それは、ヴェブレンに「製作者本能を人間に持っててもらいたい」という願望があるからだといいます。
つまりヴェブレンは、ピューリタン的(ピューリタンとは改革派プロテスタントの総称、天職としての労働に励むことが、魂の救済につながると考える)で、労働をせずに暇を見せびらかす有閑階級を妬んでいたからだといいます。
だから、労働ではなく文化(芸術)を重んじるアドルノは、ヴェブレンの「製作者本能」を批判します。
アドルノによるヴェブレン批判の正当性
アーツ・アンド・クラフト運動で有名な社会思想家ウィリアム・モリス(1834-1896)が出てくる。
*アーツ・アンド・クラフト運動とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリスで起こった芸術と工芸の運動です。この運動は、産業革命による機械化と大量生産に反発し、手作りの美しさと品質を重視する姿勢を社会に示しました。
ヴェブレンとモリスの考えは対立している。
ヴェブレンとモリスの対立とは、「製作者本能」と「芸術」の対立、「効率性」と「非効率性」との対立であり、効率性によって量産される(粗悪な)工業製品を正当化するヴェブレンと手作りのものによる文化や芸術の大切さを正当化するモリス。
人間の生は大半を労働によって「消費」されるべきものなのか、それとも芸術的な価値観を大切にして非効率でもいいが「感性・感情」を大切にするべきなのか。
(僕は後者を正当化したい立場なのですが)、これらの対立があったといいます。そして、モリスおよびアーツ・アンド・クラフト運動の発生により、アドルノの芸術賛美が正当化されると思います。
有閑階級(貴族・ブルジョアジー)及び大衆の「暇」・「品位溢れる閑暇」
「製作者本能」によってかなりの批判を受けたヴェブレンですが、批判を受けたからといって全てを否定するのは愚かなことであり、有閑階級を別の視点から見る重要なヒントもヴェブレンは見出しているといいます。
紀元前の哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロの「品位溢れる閑暇」という言葉を掲げてヴェブレンはいいます。
多くの財産を長年も持ち続けて「暇」を持て余していた貴族は、「暇」の中での生き方を知っていた、また獲得せざる負えなかった。つまり、貴族は「品位溢れる閑暇」を送るための術を知っていたといいます。
しかし、産業革命(流通市場・ロマン主義)によって生まれた新興ブルジョアジーは、平民からの成り上がりであり、急に大金を手にしたと同時にそれによって「暇」をも手にした、「品位溢れる閑暇」をしらない有閑階級であるといいます。さらに、20世紀の大衆社会では、それまで労働によって時間を搾取されていた労働者(大衆)まで「暇」を手にした。
つまり、「暇」の過ごし方を知らない・「品位溢れる閑暇」を知らない人々が大量発生したということです。この人々は、「暇」によって苦しむ・「退屈する」という大きな問題を抱えるといいます。
社会主義者ポール・ラファグル(1842-1911)という人の「労働賛美批判」が紹介されます。
労働運動が盛んになるにつれて、労働者階級が持つ価値観の異様な変化が起こったとラファグルはいいます。以下
「労働は悪だ」ということを前提に、労働者は「労働者の権利」を主張しているはずである。しかし、その労働運動の前提を忘れ、いつの間にか、自分たちのしている「労働」というものは素晴らしいものだという「労働の賛美」・「労働者の賛美」に変わってしまったとラファグルは批判します。
つまり、社会主義者であるラファグルは、資本主義によって強制される「労働」の外(余暇)に、資本主義から抜け出す道があると信じている。
しかし、これに対して著者は重要な批判をします。「余暇は資本の外部ではない」と。
有名な哲学者カール・マルクス(1818-1883)「資本論」の「労働日」の節を持ち出して、本書では当時の労働者の悲惨さが紹介される。
資本主義では当然資本家が資本を増殖させるために、労働者を使う。では、より多くの資本を獲得するためには、労働者をどう扱ったらよいのか。マルクスの時代の労働者のように、労働者の権利を無視して労働者をこき使えばいいのか。
違うといいます。
労働者は人間であるため、こきを使いすぎれば逆に効率が悪くなる。では、「資本のために」適度に労働者に余暇を与え、最高の状態で働かせる。これが資本の増殖にとって最も効率がいい。
この考えから、「フォーディズム」と呼ばれる生産体制が生まれたといいます。
「フォーディズム」
「フォーディズム」とは、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードによって作られた生産体制です。「労働及び労働環境の最適化」=「労働生産性の最大化」という理論です。
*ヘンリー・フォード(1863-1947)は、アメリカの自動車産業のパイオニアであり、フォード・モーターの創設者です。大量生産技術を導入し、自動車を一般大衆に手軽に提供することに成功しました。特に、フォード・モデルTは、世界初の大量生産された自動車として知られています。
「フォーディズム」における3つの大きな特徴
・身体的苦労を軽減する生産工程
・生産高に応じた賃金の上昇
・8時間労働制(余暇の承認)
しかしこれは、労働者のために生み出された生産体系ではない。「生産性向上」・「資本のため」に作られた生産体系であるといいます。
そのため、探偵やスパイに依頼して労働者の余暇・休暇を監視させ、労働に支障をきたすようなことをしていないかを見張っていたそうです。
つまりさっき出てきたように、「フォーディズム」下では、最適な労働を行うための余暇の過ごし方を労働者は強制される。余暇は労働から離れる時間ではなく労働のための時間となった。
「余暇も労働の一部となった」=「余暇は資本の外部ではない。」
これによって、さっき出てきたラファグルの想定は崩されました。
「禁酒法」と「フォーディズム」の関係
イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラシム(1891-1973)の「禁酒法」と「フォーディズム」の関係性分析が出てくる。
*禁酒法は、アメリカ合衆国において、アルコール飲料の製造、販売、輸送、および輸入を禁止した法律。1920年から1933年までの約13年間にわたって施行されました。
「フォーディズム」(労働の合理化)と禁酒法は間違えなく関係しているとグラシムはいいます。労働の最適化のためにアルコールは邪魔であり、アルコールを排除して労働に精進してほしい、このような思惑から「禁酒法」は生まれたといいます。
1933年に「禁酒法」は廃止になったのですが、労働者の反発によって「禁酒法」は廃止になった訳ではないといいます。資本家の都合によって作られた「禁酒法」ですが、労働者も「禁酒法」に賛成だったといいます。高賃金のためなら私生活を売りに出すことに労働者は賛成していた、つまり「余暇まで資本家に取り込まれること」に賛成していた。
「消費者主権」
アメリカの経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイス(1908-2006)の「ゆたかな社会」が紹介され、「消費者主権」についての言及が取り上げられる。
消費者主権:経済における消費者の役割や影響力を強調する概念。この考え方では、消費者は市場での購買決定を通じて供給される商品やサービスを最終的に決定する力を持つとされています。つまり、消費者の選択や需要が企業の生産活動や市場の動向を左右するということです。
簡潔にいうと「消費者主権」とは、消費者の「欲しいもの」いわゆる「需要」に応じて、ものは「供給」されなければならず、消費者の需要が経済を支配しなければならないということです。
しかし、現代では「消費者主権」が全く通用しなくなっているといいます。どういうことか。
「供給が需要よりも先行している。」ということです。「欲しいもの」が企業の広告などによって作り出されている、「欲望が作り出されている」。
結果、現代では消費の主権者は国民ではなく生産者(企業)になっている。
「ポストフォーディズム」
現代では、もはやフォーディズム的な生産体制は成立しえないといいます。理由は何なのか。理由は主に以下の2つだといいます。
・右肩上がりの経済を維持できない。
・消費スタイルの変化。
・右肩上がりの経済を維持できない。
経済の好循環が維持できなければ、つまりずっと経済成長していなければ「フォーディズム」的な生産体制は維持できない。つまり現代では難しい。
・消費スタイルの変化。
フォーディズムの生産体制が成り立つ時代では、質が高ければ「同じもの」を売り続けることが出来たといいます。フォードは、同じものを15年間も売り続けていた。
しかし現代では、質の高いものでも「モデルチェンジ」をしなければ売れないといいます。
「モデルチェンジ」が強いる労働形態
現代では、あらゆるものの「モデルチェンジ」が目まぐるしいことは言うまでもないと思います。では、この「モデルチェンジ」とは、企業の生産体制にどのようなことを強いているのか。
同じものが売れた時代は、ある程度の先行きは見える。よって、巨額な設備投資のリスクが少ない。
しかし、「モデルチェンジ」を強いられる生産体系では、すぐ先の未来まで不透明であり、巨額な設備投資はかなりのリスクス強いられる。
巨額な投資をしてその商品が売れなかった時のリスクは計り知れないし、売れたとしてもすぐに「モデルチェンジ」しなければならない。
それによって、現代で大きな問題になっている「派遣」が生まれたといいます。
正規雇用も言ってみれば人件費という投資であり、特に日本ではすぐに首を切れない。よって、「派遣」を使い、ものが売れなければ「派遣」を切りることによってリスクを軽減する。言わば、「モデルチェンジ」を強いる社会のリスク回避手段になっているということです。
巨額な設備投資というリスクを回避するために、首の切りやすい「派遣」を使う。機械が人間の雇用を奪うどころか、現代では人間が機械の代わりをしているといいます。
結果「モデルチェンジ」は「派遣」という、自分たち国民にとっての大きな問題をもたらしている。国民は「モデルチェンジ」によって不利益を被っている。
よって「モデルチェンジ」を肯定している、あるいは受け入れている国民は自分たちで自分たちの首を絞めている。「モデルチェンジ」を容認する国民は変わらなければならない、「モデルチェンジ」を強いられる生産体制を国民は拒絶しなければならないと著者は警鐘を鳴らします。
そして「モデルチェンジ」を求める我々は何故同じものに満足できないのか。それは、消費による「退屈の気晴らし」を求めてしまうからだといいます。
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