國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』4 (退屈とは何か?)

人生

退屈とは何か?

「そもそも退屈とは何なのか。」

退屈論の最高峰といわれる、ハイデガーの「形而上学の根本諸概念」が紹介され、考察が始められる。

マルティン・ハイデガーは、20世紀の最も影響力のある哲学者の一人。彼は1889年にドイツで生まれ、1976年に亡くなった。特に存在論と呼ばれる哲学の分野で知られている。
代表作『存在と時間』(1927年)は、存在の意味を探求するもので、現象学的なアプローチを用いていており、私たちが日常生活でどのように存在を経験するかに焦点を当て、存在の本質を明らかにしようとしました。
彼の思想は、現象学、実存主義、大陸哲学など多岐にわたり、後の哲学者や思想家に大きな影響を与え、また、ナチス政権との関係でも論争を引き起こしましたが、その思想は今なお多くの人々に研究されている。

形而上学:あらゆるものの背後にある、根源的なものを探求する学問。

「形而上学の根本諸概念」の初めには「そもそも哲学とは何か」という問いが投げかけられ、ハイデガーはノーヴァリス(ロマン派の思想家)という人の定義を引用して、こう答えたそうです。

哲学とは、「郷愁」である。

この言葉にはとても感動します。ありもしない懐かしい自分に立ち返るような心の動き、よくわからない懐かしさを感じる瞬間、ある種の強力な快さがあります。

ハイデガーの哲学は、「気分」をとても重視するそうです。あらゆる概念について多くの知識を持っていようとも、それによって感動できなければその知識を理解したことにはならないといいます。

僕たちはいつも何かしらの気分でありながら、何かしらのことをしています。つまり、「気分」を抜きにしては人間を考えることはできない。

「退屈」という気分は誰もが知っていると同時に誰もよく知らないものであり、こういったものを分析するのは非常に厄介だと、だからゼロから「退屈」を考えてみようとハイデガーはいいます。

「哲学とは郷愁である」という定義を掲げたハイデガーという大哲学者は、「退屈」という気分についてどのように考えたのか。また、この「退屈」の分析は感動をもたらすことができるのか。

退屈の形式化

ハイデガーは、「退屈」を3つの形式に分けて考えます。

「退屈」の第1形式:「何かによって退屈させられる」
「退屈」の第2形式:「何かに際して退屈する」
「退屈」の第3形式:「なんとなく退屈だ」

以上、「退屈」を第1形式~第3形式に分類わけし、第3形式に向かうにつれて退屈の分析度及び退屈度が上がっていくそうです。

退屈」の第1形式:「何かによって退屈させられる」

「引き止め」「空虚放置」

ここでは、列車の待ち時間の例が出てくる。列車の待ち時間はとても「退屈」だと思います。僕もスマホでどうでもいい動画を見ながら、必死で電車が来るまで待ちます。時間がとても長く感じます。

では、電車の待ち時間における「退屈」をよくよく考えてみる。

ここでは、「ぐずつく時間」と、それによる「引き止め」が起こっているといいます。電車がなかなか来ないという「ぐずつく時間」、その時間に人は「引き止め」られている。

では、なぜこの「ぐずつく時間」に耐えがたいものを感じるのか。

それは、何もしない・できない状況(空虚放置)に人は耐えられないからだといいます。だから、スマホを触るという「気晴らし」によって、「空虚放置」されるのから逃げる。映画の上映時間に然り、店の開店時間に然り。

そして、「退屈」の第一形式「何かによって退屈させられる」は、その「何か」がもつ「理想時間」に上手く適合出来ていない時に発生するといいます。「電車の発車時間」に遅れてしまった、「映画の上映時間」「店の開店時間」より早く来すぎてしまったなど。

よって、「退屈」の第一形式を構成するもの、それは「何か」による「引き止め」と「空虚放置」です。

「退屈」の第2形式:「何かに際して退屈する」

ここでハイデガーは「夕食パーティー」を例に出し、「夕食パーティー」に際して「退屈」する様態を説明します。第2形式は第1形式とは違い、「退屈」させられている対象が電車の待ち時間のように明確でない。しかし、「退屈」している。

パーティーは確かに楽しかった、しかし確かに「退屈」していた。第1形式では、「退屈」する対象が明確であったため、「気晴らし」も明確だった。今回は、明確な「気晴らし」が見当たらず、「気晴らしらしきもの」があった。葉巻を吸ったり、机を指でトントンとたたいたり。

第1形式では、「退屈」を紛らわすために「気晴らし」に集中していた。しかし、第2形式では、「気晴らしら(しきもの)」がパーティーに埋もれている。これはなぜか。

「パーティー自体が気晴らしだったから」だそうです。

だから、「気晴らし」(パーティー)の中で感じる「退屈」を紛らわせるものは、「気晴らしらしきもの」になってしまう。つまり、第2形式では、「退屈」と「気晴らし」が独特の在り方で絡み合っているといいます。

「気晴らし」の中にいるため、第1形式の「引き止め」「空虚放置」は存在しえない。では、第2形式における「引き止め」「空虚放置」とはどのようなものなのか。「空虚放置」から見ていきます。

第一形式での「空虚放置」は、「周りのもの」が自分に答えてくれないことで発生する。では、第2形式ではどのように「空虚放置」が起こるのか。

パーティーでは、周りに調子を合わせる、付和雷同する。自分の価値観と合致するもの、他人の価値観を尊重して控えめにするもの。場の雰囲気に適合しようとすることで、自分の中に「空虚」が現れてくる、そしてその「空虚」がだんだん育ってくる。

いつの間にか自分を投げやりにし、「空虚」に自分を放任する。これが第2形式の「空虚放置」だといいます。第1形式では「空虚放置」の対象が周りのもの」がだったのに、第2形式では「空虚放置」の対象が「自分自身」になる。

では、「引き止め」はどうか。

第1形式では、「ぐずつく時間」によって「引き止め」が起こる。第2形式では、「ぐずつく時間」は存在しない。パーティーはそれ自体が「気晴らし」であるため、時間を気にする必要性がない。時間は自分を放任している。

しかし、時間は自分を放任しているが、放免はしていないと著者はいいます。

放任:干渉せずにほうっておくこと。
放免:拘束を完全にゆるして,自由にすること。

つまり、「一時的な時間」は自分を放っておいている。しかし、「全体の時間」(人生)からは、逃れていない(逃れることはできない)ということ。

投げやりな自分の「空虚さ」によって、人生(根源的な時間)が「引き止め」られている。これが第2形式の「引き止め」だといいます。


そして、「暇」ではないけど「退屈」な状態、これが第2形式であり、「気晴らし」「退屈」が独特、複雑に絡み合っている奇妙な状態、しかしこの状態が近代の僕たちが最もよく経験する退屈形式だといいます。

「退屈」を凌ぐための「気晴らし」虚しい「気晴らし」による「退屈」、このループの最中に時折現れる自分自身の「空虚」

様々な状況に際したとき独特、複雑に現れる「退屈」「気晴らし」、生きることとはこの状況に臨み続けることではないのか、そして第2形式の生き方こそ、現代における「正気」な生き方ではないのかと著者はいいます。

「人生」とは、見方を極度に軽くすれば全部「退屈を凌ぐための気晴らし」だということが出来ると思います。公園で遊ぶことだって、勉強していい学校に入ることだって、必死に就活していい企業に入ることだって、事業を成功させてお金持ちになることだって、自分の夢を追いかけることだって。

だったら、自分の心が動くことをした方がいい、自分が本当に感動出来ることに時間を費やした方がいいのではないかと僕は思ってしまいました。たとえそれが、「正気」から離れた「狂気」だとしてもです。

そして本当に人生を豊かにするもの、それはお金でも効率性でも知識でもなく、最終的には感動だと思います。

「退屈」の第3形式:「なんとなく退屈だ」

「なんとなく退屈だ」これが、最高度に深い「退屈」だといいます。では、なぜこれが最高度に深い退屈なのか。

「気晴らしが許されないから」だそうです。

状況に関わらず突然突発的に湧いてくる「退屈」という気分に、「気晴らし」が有効性を失う。

第1形式では、「退屈」の原因が明確であり「気晴らし」でその原因を抑えつけようとする。第2形式では、「退屈」を薄々感じるが、その退屈に自分を投げている。第3形式では、原因不明の「退屈」が突然湧き上がるため対処法が見当つかない。

つまり、「気晴らし」の有効性が乏しくなるほど、退屈度は深くなっていくということが出来る。では、最高度の退屈である「なんとなく退屈だ」という気分が湧いた時、人はどのような事態に陥るのか。

その状況では、人はその声に耳を傾けることしかできない、耳をを傾けることを強制されるといいます。

ではこの状況では、「引き止め」「空虚放置」はどのような様態を呈するのか。「空虚放置」から見ていきます。

「なんとなく退屈だ」という気分を感じた人は、人生全てがどうでもよくなる、人生の無意味さを感じる。自分の想定できるものが何一つ言うことを聞いてくれないような空虚さにポツンと1人取り残される。これをハイデガーは、「余すところなき全くの広域に置かれる」と表現したそうです。

この状況(絶対的な「空虚放置」)に置かれた人間はどうなるのか。あらゆる可能性から離れた(拒絶された)人間はどうなるのか。

自分という実存(現存在)に目を向けることしかできない、目を向けることを強制される。「自分に授けられた、授かっていなければならないはずの可能性、この状況(最も深い退屈)を突破するための先端部を自分の中に見出すことを強制される」といいます。

そして、この絶対的な「空虚放置」がもたらした可能性の扉の前に人は「引き止め」られる。これが第3形式の「引き止め」だといいます。

第3形式における「引きとめ」は、絶対的な自分の可能性を享受する「きっかけ」になりえる。

つまり、第3形式の「退屈」は、最も深い退屈であるがゆえに周りから完全に拒絶される(完全な「空虚放置」)。その完全な(絶対的な)拒絶によって(何一つ抗うことのできない「退屈」によって)、絶対的な自分の可能性に目を向けることを強制される(「退屈」の突破方法を自分の最も深いところから探さざる負えない)。

「ゼロであるからこそゼロを突破するための可能性が見える」といいます。

以上3つの形式が導くこと

第3形式の「退屈」は、最も深い「退屈」であるがゆえに最も耐えがたい「退屈」でもある。

第1形式、第2形式、第3形式、形式が進むにつれて退屈度が増していく。総じて、「退屈」から逃れるために「気晴らし」をするが、退屈が深まるにつれて「気晴らし」が有効性を失っていく。

第1形式は、時間に囚われている、この中で最も自己喪失の大きい「退屈」であり、時間を失いたくないという虚しい欲求に駆られた時間の奴隷、日々の仕事の奴隷状態だといいます。

第2形式では、パーティーという「気晴らし」によって根源的な時間がもたらす退屈から逃れようとしていたが、その「気晴らし」の中で「退屈」していた。しかし第1形式に比べると、パーティーという一見無意味な時間を自ら設けられているという点に関して、時間の奴隷状態からは解放されている。

では、そもそもなぜ人は自分の時間を投げ売って、仕事の奴隷になったり、無意味なパーティーをして「気晴らし」をしたりするのか。お金が無いと生きていけないから?人との交流は人生を豊かにするから?

ハイデガーの結論は、第3形式の「なんとなく退屈だ」を聞きたくないからだそうです。

「なんとなく退屈だ」当然湧き上がる内なるこの声に耳を傾けなければならないのは非常に苦しい、しかし自分の絶対的な可能性、希望に触れる唯一無二のきっかけでもあるといいます。

ハイデガーはいいます。「退屈」という気分、それは自分が「自由」である証拠だと、「自由」であるがゆえに「退屈」すると。「退屈」は自分が「自由」だということを教えてくれている、だから「決断によって自由を発揮せよ。」これが、ハイデガー退屈論の結論です。

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