國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』1 (気晴らし、退屈の解決策、定住化)

人生

はじめに

」や「退屈」について。

これらのことを深く考えることはとても面白いと思います。「倫理学」とは、「生き方」を探求する学問であり、暇や退屈との向き合い方について考えさせられる本です。

やることが無くて時間を持て余してる人、仕事などで自由な時間が無いのに何か満たされていない人、自由な時間が沢山あるのに充実して時を過ごせる人。

「時間」について考えることは、生き方を見つめなおす、あるいは人生を見つめなおすことに繋がる非常に重要な事だと思います。

休日の自由な時間を過ごしているはずなのにリラックスできない、働いているはずなのに物足りなさ、虚しさを感じる。

昔に比べて戦争や貧しさの少ない「近代」とは遠くから見るとどのようなものなのか、自由な時間は本当に自由なのか。物が豊かな生活は、本当に豊かさを与えてくれているのか。

近代」から加速したであろう「退屈」という感情や「」は、自分たちに何をもたらしてくれているのかをよくよく考えさせられる本です。

気晴らし

気晴らし」とは、何か窮屈な感じ(退屈)がしたとき、それを解消するためにする行動だと思います。しかしそれが不幸を招く原因だと、本書の初めに出てくるパスカルという人は言います。

パスカルとは、「考える葦」という言葉で有名であり、気圧の単位の名前にもなっている、17世紀のフランスの哲学者です。

(部屋で)じっとしていればいいものを、人ごみに出かけたり、ギャンブルをしたりするから、無駄なストレスを感じたり、金を失ったりする。

つまり、「気晴らし」を求めることが不幸の原因だということです。

ここでは、ウサギ狩りの例えが出てきます。本質的な目的についての例です。

ウサギ狩りの目的は、ウサギを獲ることなのか。

違うといいます。

ウサギ狩りをしようと準備している人に対してウサギをあげたら、その人は満足なのか。満足しないと僕は想像できます。ウサギを狩る過程いわゆる「気晴らし」に目的がある。

欲望の対象」・「欲望の原因」という2つのものがあり、本質的な目的は、欲望の原因」を解消すること、「欲望の対象」であるウサギではなく、狩りという「気晴らし」が本質的な目的だということ。退屈を紛らわすための熱中できること、「気晴らし」に他ならない。

苦痛を伴う「気晴らし」を求める人間を、パスカルはみじめだといっています。しかし、人は退屈よりも熱中できる苦しみを選ぶといいます。

原因のわからない(豊かな)不幸

この本では、パスカル、ニーチェ、ラッセル、ハイデガーなど、様々な哲学者の考え(退屈について)が紹介されます。

ニーチェ「多くの若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。行動を起こさせてくれる苦しみを欲している。」

ラッセル「近代には、食べ物や飲み物を確保できる収入、健康が与えられている。飢餓や貧困や戦争も少ない。しかし、よくわからない日常的な不幸が襲っていて、逃れたいのに逃れられない。」

退屈とは何か

ラッセル「退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。」

人は同じことを繰り返していることに耐えられないと思います。ずっと仕事漬けだと休みが欲しくなったり、手持ち無沙汰の時には何かしたくなったり。子供のときにはそれは顕著だと思います。

ここでいう「事件」とは何なのか。「今日を昨日をから区別してくれるもの」だといいます。

つまり「退屈」の起こる原因は、予測できる事しか起こらない時、あるいは起こらないであろう時だということです。


先を把握することは確かに必要だと思いますし、人間の本能的なものだと思います。しかし、予測できすぎる毎日は、「退屈」が伴うことを頭にしっかりと入れておかなければなりません。

退屈」は人を十中八九不幸にします。しかし、原因がはっきりと分からないことがほとんどです。

なので、予測しすぎるのを諦めること、予測可能性を壊すことがたまには必要であり、良い壊し方を日々見つけていくことが、「近代」で生きていくうえで最も重要な課題だとまで僕は思いました。

そして、「退屈」はこれ以上の無い不幸だと思います。「退屈」になるくらいだったら、苦痛を伴うような事件が起きた方がまだましだし、僕もそうだと思います。

こう考えると「退屈」は非常に恐ろしいものです。

退屈」というのは、贅沢な悩みという軽い感情ではなく、真剣に考えて向き合わなければならないものだとこの本を読んで確信しました。

また、これを読んで、ソクラテスの「快楽の反対は苦痛」、「幸せ(善)の反対は不幸(悪)」、快楽善(幸せ)では無く、苦痛悪(不幸)では無い、という言葉を思い出しました。

苦痛」で人は「退屈」(不幸)から逃れることが出来るし、快適な生活(快楽)でも人は「退屈」(不幸)を感じる。

いかにして楽しみを得るかではない。いかにして楽しみを求めることができるようになるか。」という重要なことがかいてありました。
退屈」の処方箋は「外的なもの」では無く、「内的なもの」に存在するのかもしれないということです。

つまり幸せな人とは、楽しみであろうことを得ている人ではなく、楽しみを求めることが出来る人、自分の内省的な扱い方が上手い人だということでした。

退屈に悩まされやすい「近代」。心から楽しむということは一見簡単そうに見えますが、実はとても難しい事であり、またこの時代に生きていくうえで非常に重要で、真剣に考えなければならないことでもあると考えさせられます。

「退屈」の解決策?

2人の人物(ラッセルスヴァンセン)の「退屈」に対する解決策が出てきます。

ラッセル:「熱意」を持つこと。
スヴァンセン:「ロマン主義」を捨てること。

ラッセルバートランド・ラッセル)とは、主に20世紀に活躍した、イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家です。世界三大幸福論と呼ばれる著作者(アラン、ヒルティ、ラッセル)の中の一人でもあります。

スヴァンセンラース・スヴェンセン)とは、1970年生まれのノルウェーの哲学者、著作家であり、「働くことの哲学」、「退屈の小さな哲学」が有名です。

・「熱意」を持つこと。

これは、非常に単純なものです。

例えば、自分の好きなことをしている時。例えば、友達とサッカーをしている時、ゲームをしている時、好きな漫画を読んでいる時。
この時間は、「時間」というものを忘れてそれに「熱中」していると思います。

つまり、「熱中」できること「熱意」を持てるものは、「退屈」を忘れさせるということです。

・「ロマン主義」を捨てること。

ロマン主義」とは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパやアメリカで発展した文化・芸術・文学の運動です。理性や秩序を重視する啓蒙主義や産業革命(平等)に対する反発として生まれ、感情、自然、個人的な体験、創造性を強く尊重します

簡潔には、「個人主義的な思想」です。

有名な漫画は、「ロマン」を求めることが多いと思います。

例えば、ワンピースだったら「ワンピースを見つける」というロマンを求め、ハンターハンターだったら、「一流のハンターになる」というロマンを求め、それ以外の漫画にもそのようなものが多いと思います。

ではなぜ、「ロマン」を求めるのか。「ロマン」を求める漫画はなぜ、人々の興味を引くのか。

自分はみんな(他人)と同じではない。同じはいやだ。自分の力で何かを手に入れたい、そうでなければ自分の生きてる意味は無い。

こういった思いが、誰しも心の中にあるからだと思います。

スヴァンセンによれば、こういった思いの源泉は「ロマン主義」であり、僕たちが「退屈」している証拠でもあります。

よって、スヴァンセンの解決策は、そういった「ロマン主義を捨てること」、「自分を諦めること」

自分の生きている意味を見つけることを諦めることだといいます。

以上の解決策の問題点

・ラッセルの解決策の問題点

ラッセルの解決策「熱意を持てるものを見つける。」これはとても単純です。しかし、単純ゆえにこういった疑問も出てきます。

熱意を持てるものであれば何でもいいのか、熱意を持てることであれば何をやってもいいのか」。

自分が熱意を持って取り組んでいること。これが、本質的に自分を幸せにすることなのか、あるいは自分をだまして現実から逃れるためにしていることなのか(パスカルの言う「気晴らし」なのか)

これらは見極めなければならず、しかし見極めることは非常に難しいです。

退屈」は一番の不幸であり、恐怖でもあると考えられます。なので、「退屈」から逃れることを人は本能的に優先して望む。例えそれが苦痛を伴うことだったとしても、「退屈」よりはましだと考える。

例えば、ギャンブルで金を減らすこと、争いでけがをすること、命を落とすことまで望むときがある。これは適切とはいえない。

退屈」から逃れるための熱意(気晴らし)の対象は、何でもいいわけではない。それで苦痛(不幸)まで求めてはいけないということでした。

・スヴァンセンの解決策の問題点

スヴァンセンの解決策「ロマン主義を捨てること。」これはラッセルの解決策に比べて極端に難しいと思います。

ルフィに「海賊王になるのを諦めろ」といっているようなものだし、ゴンに「ハンターになることを諦めろ」といっているようなものです。

ルフィは「死んだ方がましだ」というだろうし、ゴンは母のような存在の人を裏切ってまでハンターになりました。

到底解決できるとは思えません。でもこの解決策の問題点は単純です。「難しすぎる」ということです。

定住化

次に、「退屈」を広い視野で考えようと試みます。人類史の視点から見てみる。
この本では、西田正規という人類学者の「定住革命」が紹介される。

そもそも、人間が「定住生活」を始めたのは約1万年前であり、それまでの約400万年は「非定住生活(遊動生活)」をしていたそうで。

これはよく考えると、とても不思議なことです。

僕たちが今当たり前にしている「定住生活」は、人類史の観点からみるとつい最近のこと。そして何よりも、なぜずっとしてきた「遊動生活」を止めて、「定住生活」を始めたのか。

必ず、「きっかけ」があるはずです。それも、とても大きな。

たった数年勤めた会社を転職するのでさえかなりの勇気や行動力が必要なのに、400万年も続けてきたことを止めるなんて。

理由は何なのか。

「定住生活」が当たり前の僕からすると、昔の人類は知能も低く技術も無く、定住したくても出来なかった。不便である「遊動生活」をする他なかった。こう考えると思えます。

しかしいくら何でも、400万年もの間定住のための準備に時間がかかったとは考えられません。

ではなぜなのか。理由は、「気候変動」だそうです。

これは納得できます。人間には決して抗うことのできない自然の力によって、人類は定住を強制された。遊動生活に必須な狩猟が困難になり、貯蔵(定住)が必要になった。

しかし、言い換えれば、人類は仕方なく定住をすることになったということです。本来人間は「遊動生活」を望み、その生活は今の「定住生活」よりもはるかに適していたともいえると思います。

僕たちは休日に非日常を感じたくなります。旅行に行ったり、キャンプに行ったり、サウナをしたり。

ではなぜ、自由な時間は非日常を感じたいのか、なぜ僕たちは日常を拒絶しているのか。それは、僕たちが当たり前だと思っている日常生活は、実は人類にとってちっとも当たり前じゃないからなのかもしれません。

安全・便利・快適の中にいる僕たちは、どこか昔の人類の不便な生活を見下している部分があると思いますし、僕も少なからずあります。しかし、見下されているのはもしかしたら僕たちなのではないかとこの本を読んで考えさせられました。

定住以降、人類は様々な大きい問題に直面することになったといいます。

例えば、ごみ、排泄物の問題
「遊動生活」では、ポイ捨てや排拙がどこでも許されていて、その場所を離れれば分解者によって分解され、またその場所に戻ってきたときには元に戻っている。しかし現代ではそうはいきません。ごみの問題は山積みですし、小さい子にトイレを教えるのに一苦労するのはこのためだといいます。

僕たちが苦労している人間関係
例えば、学校や職場。毎日同じクラスや会社の同じ席につき、同じ周囲の人間関係と過ごす。日々何も起こらないことを望み、何か不和が生じてしまえば不安や不満が芽生え、それが日々溜まっていく。

平等や不平等
貯蔵」するために、人間は「定住生活」を始めたのでした。しかし、「蓄える」ということは、当然「分配」が必要になります。どういう風に分けるかで揉めます。自分は多くの分け前に与りたいと思うのが普通です。

貯蔵」は「私有財産」を生み、「私有財産」の差による「経済的格差」は、「大きな権力格差」を生み出します。

ここでは、「ルール」いわゆる「」がとても大切になります。「貯蔵」によって不平等が生じないために「法」を整備しなくてはなりません。

このように、「定住」は非常にめんどくさい問題を引き起こします。人間の欲望や感情が鬱陶しく絡んできます。そして距離をとることが出来ません。

この点、「遊動生活」は単純で理にかなっている部分が多いと思います。人間関係で困ったら一旦離れることが出来るし、「貯蔵」をしないため経済的格差が生じない。「simple is best」です。

そして、本書で考えるべき問題、「定住」がもたらした大きな問題の一つに「退屈」があると言います。

「定住」が退屈をもたらした。では、「非定住(遊動)生活」はなぜ「退屈」をしないのか。それは、毎日同じ繰り返しということが少ない、予測可能性が乏しいからです。

遊動生活では、移動のたびにその環境に適応しなければなりません。

引っ越しの作業を考えてみると、想像がつきます。その間色々な手続きや作業をしなければならず、家の周りには何があるのか、どこで買い物をすればいいのか、家具や家電はどのような配置にするか、出来るだけ節約するにはどうすればよいのか等々。

退屈感は消えていて、適応するための不安やわくわくで満たされていると思います。

「遊動生活」では、このような状況が定住に比べ頻繁に訪れます。その度に人間の五感やそれに付随する様々な能力、思考能力や経験知識の活用など、自分の能力を最大限に活用できる。適用できなければ「死」という、とても緊張感のある中で、自分の能力を最大限発揮できる環境が用意されている

退屈を感じている暇なんかありません。僕たちの引っ越しとは訳が違います。また、日々の達成感も比べ物にならないくらい大きいものだと容易に想像できます。

また人間は、「遊動生活」によって(日々緊張感のある「生」によって)、大脳の情報処理能力が著しく高くなったといいます。「死」と隣り合わせの「生」は人間に力を与え、その力を十分に発揮できる「遊動生活」「退屈」を感じずとても充実していた

一方「定住生活」は、高度な情報処理能力を十分に生かせる機会が相対的に著しく減る。

「定住生活」を強制された人間は、物理的移動(遊動生活)による能力の発揮が出来なくなった。だから、心理的空間を拡大し、その中を移動するようになったといいます。有り余る能力を心理的空間の拡大(装飾)に使うようになり、退屈することから逃れようとした。

だから、旧石器時代から縄文時代の移行、言い換えれば「遊動生活」から「定住生活」の移行にかけて、土器の装飾が複雑化した。「退屈」をしのぐために「装飾」に自分の能力を注ぎ、様々な「装飾」がもたらす空間の認識によって心を遊動時代のように動かそうとした

「退屈」が人を不幸にするということを知っていたかのように。

現代の過度な安全・便利・快適が与えられている環境は問題外だとさえ思わされます。力が湧く能力の発揮の仕方どころか問題意識すらなく、ましてや「遊動生活」を馬鹿にしている始末です。

馬鹿にしていた昔の人類の方が遥かに、自分たちの問題意識や問題を向ける方向が適当であり、とても理にかなっていて賢いと思わされます。

定住」から「退屈」が始まり、「近代」の安全・便利・快適による加速度的な力の喪失。生きずらさを抱える理由の一つが、なんとなく見えた気がします。

みんな「退屈」に苦労し苦痛を感じている。これは「定住生活」が1つの原因で、自分にはどうすることもできない。これが分かった時、何かすっきりするものがありました。

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