國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』3 (消費社会、疎外)

人生

消費社会

社会学者・哲学者ジャン・ボードリヤール(1929-2007)による、「消費」「浪費」の区別が紹介される。

浪費:限界のところで満足できる。(ものの受け取りには限界があるため。)「贅沢」、社会の豊かさではなく、「人間の豊かさ」に必要なもの。
消費:観念的な行為、ものを記号化(意味や観念化)する。ものを受けてっているわけではないため、限界が無い。

・贅沢:必要以上にものを受け取ること。

これらの定義を基に、以下に「消費社会」について書いていきます。

なぜモデルチェンジを容認してしまうのか。

我々は消費する「モデルそのもの」を見ていない、「モデルチェンジ」という記号」のみを見てその「記号」を消費しているといいます。

例えば、「iPhone」について。「iphone」は頻繁にモデルチェンジが行われる。なぜ新しいiPhoneが出るたびに人々は携帯を変えてしまうのか。理由を聞いたとしても、みんなが変えているから、今のiPhoneに飽きたから、今までずっと最新のiPhoneを使ってきたからなどだと想像できます。

「何々の機能が新しく加わったから変えた」という人もごく少数はいるかもしれませんが、ほとんどの人は「iPhone」を「消費」している、つまり「新しいiPhone」(「モデルそのもの」)を見ているわけではなく、「新しいiPhoneが出た」という「モデルチェンジ」・「記号(観念)」を消費させられているということです。

この他にも、季節限定メニュー、テレビやネットで宣伝されてた店などなど、「消費」の対象物が現代では溢れかえっている。そこでは人間が満足できる「浪費」を行うことが出来ず、いつまでも満足することができない「消費」を繰り返させられるといいます。

豊かさをもたらす「浪費」

人類学者マーシャル・サリーズ(1930-2021)の「原初のあふれる社会」という仮説が紹介される。

「原初あふれる社会」は石器時代の経済の豊かさについての論証です。「浪費」が許される社会=豊かな社会であり、逆に言えば「消費」しか許されない現代社会=貧しい社会です。石器時代は前者であり、近代社会は後者であるといえます。

石器時代の狩猟採集生活は、「所有」による様々な煩わしさから解放されていたといいます。所有をしない=1度に使い切るという大変な浪費家であることが許された。つまり、「浪費」を許された経済的条件の中で生きている「豊かな社会」であったといいます。

現代はものが少なすぎる?

現代社会は大量生産・大量廃棄という言葉が表すように、いらないもので溢れかえっている、物が過剰であると我々は普通考えます。

しかし、ボードリヤールは現代の消費社会「ものが少なすぎる社会」だといいます。どういうことか。

「消費者主権」が侵されている現代では、生産者の都合によって消費者はものを欲しがらされている。生産者の都合によって、生み出されるものが決定されている。つまり、市場に出回るものが生産者の都合によって制限されている「稀少性」の社会だといいます。

消費者はその少ないものに記号・観念を付けさせられ、生産者に「消費」を行わさせられる。そこでは、我々が豊かさを感じることのできる「浪費」が行えない、正確には行わさせてもらえない。

我々が満足できないように、生産者が生産をより活発にできるように、決して終わることの無い「消費」というゲームの中に我々を駆り立てているといいます。

「個性」という偽りの選択的自由の名の下に、決して到達することの無い「完璧な生活」を求めさせる。「消費」を無限に行わせる。
「消費社会」を批判するスローガンは、「質素に生きろ」ではなく、それとは反対の「贅沢に生きろ」になるといいます。

「記号・観念」を受け取るのではなく、「もの」を受け取ることによって「浪費」をしろ「贅沢」をしろということでした。

「労働」・「余暇」まで「消費」に取り込まれている?

ガルブレイスの「新しい階級」(労働によって生きがいを見出す階級)を持ち出して考える。

「新しい階級」いわゆる労働を生きがいにしている人々は、本人にとって充実しているしそれが何よりだと思います。しかし消費社会の視点から見ると、「新しい階級」の人々は「働くという生きがい」を記号化・観念化し消費させられているといいます。

また「消費社会」では、「余暇」までも「非生産的な時間の中で自由なことをしなければならない」という強迫観念によって「消費」させられているといいます。「せっかくの休日なんだから何かしなければならない」という焦燥感も「消費社会」に取り込まれている証だといえます。

逃れられない「消費社会」

本書では「ファイト・クラブ」というアメリカ映画が紹介されます。

どういう物語か簡潔にいうと、現代社会いわゆる「消費社会」に悩まされている主人公が殴り合いによって人生を良い意味で狂わされるという話です。

無意味に殴り合い、そしてそれに享楽を感じる。とても狂っている内容です。でもなぜ、無意味に殴り合いそれに享楽を感じるのか。

それは「消費社会」がそれに勝るほど狂っているからだと考えさせられます。「消費社会」がもたらす幻のような苦痛を、殴り合いによる現実の苦痛で紛らわせ、かつ生を実感する。そこに享楽がある。

最終的には、ファイトクラブという殴り合い仲間が「消費社会」をぶっ壊すテロ組織にまで発展するという映画です。

疎外

「疎外」という概念について取り上げられます。「疎外」とは、「人間が本来の姿を喪失した非人間的状態」だといいます。

「ファイトクラブ」に出てくる主人公も「消費社会」によって「現代の疎外」を受けたといえます。その「疎外」による負の感情を殴り合いによって発散させていた。

「現代の疎外」・「消費社会の疎外」とは、「自分による自分の疎外」だといいます。本当は求めていないものを求めるあるいはそれを「消費」して、自分を疎外している、させられている。

「疎外」による「本来性」想起の危険

「本来性」を思い起こすことはとても危険であるといいます。それは「強制的」だからだそうです。

ファイトクラブのように、「疎外」を受ければ「本来性」(消費社会以前)に戻ろうとテロ行為にまで及ぶことだってある。

「本来なら何々だったはずなのに、今の何々はおかしい。だったら今の何々を壊してしまおう、排除しよう、本来性に戻ろう」。このように、「本来性」「排除、強制」につながる。

そのため、「本来性」をもたらす「疎外」は危険な概念であり、かつ「本来性」「疎外」は切り離せないものだと考えられるようになったため、ある時から「疎外」の概念は用いられなくなったといいます。

疎外」の再考

本書は「退屈」について考え、その上で生き方について考えさせられる。「消費社会」という、満たされることが許されない社会では僕たち消費者は「疎外」されている。

それなら、思想・哲学が「本来性」の危険視によって用いなくなった「疎外」という概念を再び用いることによって、「退屈」を考えようと試みます。(この方法をとらなければ現代の退屈は考えられないといいます。)

でも、ここでもう一つの疑問が生まれる。本当に「疎外」「本来性」は切り離すことができないのか。

ルソー・ホッブズの疎外論

近代的な「疎外」の概念の起源を生み出したとされるルソーの「自然状態」あるいはホッブズの「自然状態」が紹介される。

「自然状態」というのは、政府や法が何もないまっさらな状態です。

「自然状態」において、ルソーは「性善説ホッブズは「性悪説」を唱えたというのは有名な話だと思います。

つまり、決まりやルールが何もないとき、人間は善い行いをするのか、それとも悪い行いをするのかという話です。

ルソーは「性善説」つまり、決まりも何もない状態(自然状態)では人々は善良に暮らしている

一方、「万人による万人に対する闘争」で有名なホッブズは、この言葉が表すように「性悪説」つまり、自然状態では人間は争う。

ではなぜホッブズは「性悪説」を唱えるのか、ルソーは「性善説」を唱えたとされるのか。以下に書いていきます。

ホッブズ「性悪説」

「希望の平等」によって争いが生まれる。

人間の「物理的な力」は、多少の大小はあるにしろ遠くから見た時はドングリの背比べ程度だといいます。喧嘩が強い人も弱い人もそこまでの差は無い、2,3人でかかれば倒せる。よって、「物理的な力」はほぼ平等であるといいます。

よって、「物理的な力」の平等性から、「平等」を考えるようになる。「あいつがあれをもっているなら、俺もそれをもっていいはずだ」という「希望の平等」を抱く。しかし逆もしかりで、「俺が持っているものは誰かに狙われのではないか」という不信感も同時に抱く、不安が生まれる。

この人間の脆弱さ・卑屈さ(性悪性)から、「物理的な力」を高めるために徒党を組み、争いが始まるといいます。

つまりホッブズは「物理的な力」が平等であるがゆえに争いが生まれると考える。不平等でなければ(巨大な権力がなければ)平和は訪れないという結論に至る。

よって、「統治権力」を置き、社会契約による法の支配によって平和(秩序)をもたらすべきであると考えました。

・ルソー「性善説」

ホッブズ批判

ホッブズの前提条件がそもそも間違っているとルソーはいいます。

奪い合いを恐れるというのはそもそも「所有」が存在している状態、つまりそれは「自然状態」ではなく「社会状態」を描いているといいます。

ルソーの「自然状態」というのは、「所有」という概念がない状態、集団生活以前の状態ホッブズ「社会状態」から「国家状態」の移行のようなものに言及していると批判します。

では、集団生活以前の人間の生はどのようなものだとルソーはいうのか。

ルソーの仮定する「自然状態」においては、「抑圧」による支配が成立するための「所有」がない。生存が脅かされない状態での支配は成立しえない。逃げればいいだけだから。

利己愛と自己愛

利己愛:自分を他人よりも高い位置に置こうとする感情。
自己愛:自己保存への衝動。

「自然状態」では、他人から何かを奪われたとしてもそれは自然の摂理だと納得でき、多少むかついたとしても「仕方ない」と受け流すことができる。

しかし、「社会状態」では違うといいます。

自分の権利が侵されているという「利己愛」によって、盗みなどの不当な行為は許せなくなる。

「社会状態」から生まれる「平等でなければならない」という信念(「利己愛」)が、支配や抑圧の起源であるとルソーは考えます。

正確に言えば、ルソーは「性善説」を唱えているのでも、「自然状態」に戻るべきだとも言っていない。我々が今いる「社会状態」を遠くから見ろといっている。

「社会状態」を客観的に見るために「自然状態」というありもしないものをフィクションとして作った。「利己愛」を説明するために、あるいは「社会状態」による「利己愛」の支配を説明するために「自然状態」という仮説を作った。

ここで大切なのは、「社会状態」による「疎外」を、「本来性」である「自然状態」で説明していない。

そもそもルソーのいう「自然状態」なんて存在しないから。人間が本来あるべき状態は「自然状態」であり「社会状態」は狂っているとはならない、「社会状態」における「疎外」を客観的に見ているだけ。

まとめると、ルソーは「自然状態」というフィクション・仮説で「社会状態」「疎外」を説明している。つまり、「疎外」「本来性」が切り離されている「本来性なき疎外」を成立させることに成功している、これは非常に重要なことだといいます。

「本来性なき疎外」

ヘーゲルは、「人はいったん自分らしさを疎外されることにより、より高い理想に近づける。」といった。一方マルクスは、「単純労働を強制された人間は自らの素質を生かすことが出来ず一生を終える、高い理想に近づくどころか疎外されたまま終わる。」といった。

アメリカの社会学者・哲学者 F.パッペンハイムは、ドイツの社会学者フェルディナント・テンニース(1855-1936)「ゲゼルシャフト」「ゲマインシャフト」でマルクスの疎外論を明らかにする。

ゲゼルシャフト「利益社会」:人為的な契約に基づく合理的・機械的な社会。会社や都市社会のような利害関係に基づく人間関係を指す。ゲゼルシャフトでは契約や法律が人々を結びつけていて、関係は形式的で一時的なものになりがち。
ゲマインシャフト「共同社会」:家族や村落、友人関係のような自然発生的で緊密な人間関係を指す。ゲマインシャフトにおける人々は共通の価値観や伝統、感情によって深く結びついていて、お互いのことをよく理解し合っている。

テンニースは、歴史的発展の中で社会がゲマインシャフト「共同社会」からゲゼルシャフト「利益社会」に移行したといいます。

ゲゼルシャフト「利益社会」における人間の部品化(感情が劣化し合理的・機械的に振舞う)が起こり、合理性・損得感情が支配し個人がバラバラになる(疎外)、そしてバラバラになったまま終わる。マルクスの疎外論が描いた近代社会の運命がリアルに起こっているといいます。

疎外論者の欲望

パッペンハイムは、マルクスの疎外論を用いてゲゼルシャフトによる疎外された労働を危険視していたが、疎外を克服することによって労働過程に真の意味が与えられるというヘーゲルの議論で最終的に理解してしまう。

ヘーゲルの批判からマルクスの議論が出てきたはずなのに。

なぜか。

「本来的な労働に戻らなければならない。」
「疎外された労働」から「真の労働」へと最終的に戻らなければならない。

この疎外論者たちの欲望が、議論の邪魔をしていたからだといいます。

アメリカの政治哲学者・思想家ハンナ・アーレント(1906-1975)

アーレントは以下のようにマルクスの矛盾を指摘します。

「マルクスは労働は必要だといっている、しかし労働階級は労働から解放されなければならないともいっている。」よって、マルクスは矛盾している。

この矛盾の原因。それは、「労働」と「仕事」を区別しなかったからだとアーレントはいいます。

労働:人間の肉体によって消費されるものに関する営み。
仕事:世界に存在し続けていくものの創造に関する営み。

よって適切に言い換えれば、「仕事」は必要だが「労働」からは解放されなければならない。このような表現になるはずだと。

アーレントはマルクスの矛盾を「労働」と「仕事」の混同で説明した。マルクスを引用して、「労働」を廃止しなければならないといった。

しかし、結論として著者は、マルクスは労働からの解放を唱えていないといいます。「労働からの解放」ではなく「労働日の短縮」マルクスは唱えていた。

より生産性を拡大させその力を人間が支配し、人が労働に日々追われなくなるように「労働日の短縮」を目指す。これがマルクスの理想とする国家「自由の王国」には必要だと「資本論」の中でいっていました。

この「自由の王国」が成立するためには、生産性の拡大という前段階つまり「労働」が必要不可欠であり、「自由の王国」が成立してからも最小の労働は必要。つまりマルクスは「労働からの全面的な解放」は唱えていない。

ここでも、アレントという疎外論者の欲望(労働廃止への欲望つまり本来性回帰への欲望)が邪魔をしてマルクスの議論を改ざんしてしまったといいます。

本来性に基づく疎外論は危険だと言います。「本来は何々だったはずだ、現状は間違っているに違いない!」という強力に保守的で凶暴な感情を生み出す可能性があり、欲望が邪魔をして慎重で正確な議論を妨げるからです。

だから、「本来性に基づく疎外論」ではなく「本来性なき疎外論」が正統派だといいます。

「本来性なき疎外論」として、ルソーの「自然状態」マルクスの「自由の王国」を取り上げ、「自然状態」・「自由の王国」という仮想的なもの(本来性のないもの)から「疎外」について議論した。

また、ボードリヤールが区別した「消費」「浪費」「消費」しかさせてくれない「近代の疎外」、消費と退屈を無限ループさせられる僕たちへの「疎外」

この「疎外」についても「本来性なき疎外」で考えなければならないといいます。

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