國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』 (決断) 

人生

決断

人間は「退屈」する、それは自由である証である、「決断」によって自由を発揮せよ。これが、ハイデガーがいうことでした。

それに対し、著者はいいます。「決断」をしろとハイデガーはいった。しかし、「決断」を良いものだとするのは危険であり、「決断」を目指す者が現れた時、その人は全ての機会・可能性を断絶することを自分に強制しなければならなくなってしまう。この孤独を良いものとするのは危険であると。

「なんとなく退屈だ」。この声を聴くことを強制されたとき(全くの可能性から拒絶されたとき)、人はその状況から逃れるための可能性の先端部を自分の中に見出す機会を与えられ、その可能性の先端部を実際に行使することが「決断」といわれた。確かに、この手順を踏む「決断」はよいもののように見える。

しかし、「決断」によって自分の可能性を見出したいと望む時、「決断」の機会を得るために全てを断絶しなければならない、これは「決断」の奴隷になっているのではないかと著者はいいます。

哲学・神学者セーレン・キルケゴールの言葉が紹介される。

セーレン・キルケゴール(1813-1855)は、デンマークの哲学者であり実存主義の先駆者として広く知られている。

「決断の瞬間とは一つの狂気である」

人は何かに従いたくなる。従うものが無い状態は不安であり、退屈であるから。言い方を変えれば、何かの奴隷になることを心のどこかで人は望んでいると言える。「決断」によって自分の可能性を発揮せよという言葉は確かに聞こえがよいしかっこいい。しかし、「決断」という狂気に従う、心地のよい奴隷状態なだけではないのかと著者はいいます。

ここで、ハイデガーの唱える決断主義の欠落を著者は指摘する。「決断した後の人間のことが全く議論されていない」と。

再びハイデガーの退屈形式をもとに考えてみる。

第1形式は、日々の仕事の奴隷になっていて、自分の時間が惜しい。そのため、理想時間に上手く適合できないと「引き止め」が起こり「空虚放置」され退屈する。
そして、第一形式は自己喪失がとても大きいとハイデガーはいい、日々の仕事の奴隷、時間の奴隷になっているという。
しかし、なぜ人は日々の仕事の奴隷になることを選ぶのかと言ったら、それは「なんとなく退屈だ」の声を聞きたくないからだった。この声を聞くことは人間にとってとても苦痛らしい。

第2形式では、日常的な「気晴らし」の中に時々現れる「退屈」が描かれていた。パーティーという「気晴らし」の中に時々現れる「退屈」。「退屈」と折り合いをつけ、近代社会を生きていくための退屈と上手く混ざり合う生き方が、この第2形式だった。

第3形式では、「なんとなく退屈だ」の声を聞くことを強制され、何もできない中で自分が出来ることを見出し自己実現(自由)を目指す。この過程を「決断」と呼んだ。しかし、この「決断」した後の人間についてハイデガーは何もいっていない。そのため、「決断」した後の人間はどうなるのか、それを考えてみようといいます。

「決断」した人間は、その「決断」に強力に従う、そうでなければ「決断」という強い言葉の意味が無いから。言い換えれば、「決断」の奴隷になる。「なんとなく退屈だ」の声も聞かなくて済むようになる。ただただ「決断」したことを遂行していけば、この声は聞こえてこなくなるから。

このように考えると、第1形式と第3形式は似ていると言えるといいます。「なんとなく退屈だ」を聞かなくていいようにするために、前者は仕事の奴隷になることを選び、後者は決断の奴隷になることを選んだ。

その点、第2形式は特殊だと著者はいいます。

奴隷になるようなことが無い第2形式は、大きな均整と安定があるといい、退屈とは決して離れることが出来ない人間の「正気」な生き方、これが第2形式の生であるといいます。
普段、人は第2形式の中を生きているが、内なる「なんとなく退屈だ」の声が大きくなった時、仕事に逃げる及び決断することで自由を得ようとする、これが第1形式であり、第3形式であると著者はいいます。

ハイデガーは、自己喪失の大きい第1形式及び第2形式を否定し、決断によって自由を見つけようとする第3形式を肯定していた。しかし著者は、第1形式も第3形式も奴隷状態に他ならず、近代社会を生き抜くための歴史的な知恵が詰まる第2形式の生、この生を生き抜くことがこの社会と上手くやっていくコツなのではないかといいます。

まとめ

人間的な生とは、ハイデガーのいう退屈の第2形式を生きること、つまり退屈と気晴らし中を生きることだといいます。

ここで、コジェーヴという人のヘーゲルについての講義が紹介される。

ヘーゲルは、弁証法的な過程により人間の歴史は進んで行くといった。そして、この弁証法的進歩はナポレオン戦争で終わったとヘーゲルはいい、ここが「歴史の終わり」であり、「人間の終わり」であるとコベージュは信じていたといいます。

ナポレオン戦争(1803年〜1815年)は、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトが主導した、ヨーロッパ全域を巻き込んだ壮大な軍事衝突です。近代ヨーロッパの政治・社会・思想の転換点でもあります。

自由や平等のために命を懸けて戦う人を「本来の人間」と呼び、これが達成されれば「本来の人間」は居る必要が無くなる。これを、「人間の終わり」「歴史の終わり」とコジェーヴはいった。その後の大きな世界大戦もその余韻に過ぎないとまでいいました。

アレクサンドル・コジェーヴ(1902–1968):20世紀フランス哲学における極めて重要な思想家であり、特にヘーゲルの精神現象学」に対する独自の解釈で知られています。

ヘーゲル(1770-1831):ドイツ観念論の巨匠であり、近代哲学に多大な影響を与えた思想家です。彼の哲学は、世界と人間の精神を壮大な体系として捉え、弁証法という方法を通じて発展していくと考えました。「精神現象学」などが有名な著作です。

弁証法:対立や矛盾を乗り越えて、より高次の理解や真理に到達するための思考法。以下のように、テーゼアンチテーゼを乗り越えてジンテーゼに辿り着こうとする。

段階意味
テーゼ(正)ある主張や現状「仕事をしなければならない」
アンチテーゼ(反)テーゼに対立・矛盾する主張「仕事がしたくない」
ジンテーゼ(合)両者を止揚(アウフヘーベン)して統合「自分に合う仕事をする」

1948から1958年にアメリカとソ連を旅行したコジェーヴは、「歴史の終わり」を確信したといいます。「歴史の終わり」を迎えた国家は、ただ満足するだけの動物的な人間で溢れかえる、これをアメリカ的な生活様式で見出し、ソ連や中国もこの後を追うだろうと考えました。

しかし、1959年に日本を訪れた際、この考えが180度変わる。価値観を何一つ持たない形式主義的(スノビズム的)な日本人を、「歴史の終わり以後の人間」であるといい、日本人は動物的ではなく人間的であるといった。

能楽、茶道、華道、ハラキリ、特攻などを例に出して、日本の高度に洗練された「形式主義」を「歴史の終わりを生きる人間」として理解した。アメリカ的生活様式は、歴史の終わりの初期を生きている、最終的に人間は皆日本人のようになるとコジェーヴは予言しました。

しかし、この予言に対し著者は批判します。そもそも、人間が最終的にアメリカ人のように動物的になるだとか、日本人のように高度に形式主義的になるだとか、結論がころころ変わる時点で信用できないと。

ヘーゲルのいった「本来の人間」、いわゆる弁証法的に進歩していく人間、この仮定がそもそも誤っているのではないか、ハイデガーのいう退屈の第3形式を生きる人間を「本来の人間」として理想化し、それ以外の人間を歴史の終わりを生きる動物的な人間と言ったり、過度に形主義的な人間と言ったり、「本来的な人間」という仮定そのものが大きな勘違いなのではないかと著者はいいます。

人間は退屈の第2形式を生きている。アメリカ人のような動物的な生き方も日本人のような形式的な生き方も、「なんとなく退屈だ」から逃れるための気晴らしなのではないか。

「なんとなく退屈だ」という声から逃れるために四六時中気晴らしを行っている、人間はパスカルの言う通り惨めな存在なだけではないのか。その惨めさに比べれば、動物の方が遥かに賢いといえる。動物は自らの存在に耐えきれなくなって、何かに逃げ込んだりしないといいます。

習慣

「環世界」という言葉がこの本では出てきました。

「習慣」によって人は「環世界」を獲得する。最初は慣れないことでも、日々こなしていく内に考えないでもそれが出来るようになる。しかし、「習慣」によって獲得した環世界もすぐに崩れ、また新しい環世界を獲得しなければ人は生きていけない。

今の社会では、成長すると幼稚園や学校に行かなければならなかったり、就職して働かなければいけなかったり、その間にも引っ越しや転職をするかもしれない、日常に何か大きな出来事が起こるかもしれない。

人は「習慣」によって、無意識的に考えなくていいようにしているといいます。新しい情報の獲得は非常にエネルギーを使うからです。毎日の出来事を単純化し、新しいシグナルを無意識的に受け入れなくしている。

同じような日々に飽き飽きするけど、同じような日々を無意識的に望んでいる。学校に行く道だって、仕事場に行く道だって気分転換に違う道を通ればいいものを、何か余計なことが起こって学校に遅れるのではないか、仕事に遅れるのではないかという不安から遠ざけたりすることが多々あるし、通学路や通勤路の日々の小さな変化も余計なノイズとして認識しようとしない。

人は考える生き物だとよく言われるが、人はものを考えないような生活を無意識に目指しているといいます。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、「人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである」といったそうです。

ジル・ドゥルーズ(1925–1995):20世紀フランスを代表する哲学者であり、ポスト構造主義やポストモダン思想の中心人物の一人です。

確かにそうだと思いました。深く考え事をしている時は、いつも何かショックな出来事があった時だと今思い返せば納得できるからです。日々満足していたら、深く考えることなんてしません。

最後に、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトの快原理が出てきます。

ジークムント・フロイト(1856–1939)は、精神分析学の創始者として知られるオーストリアの心理学者・精神科医です。

フロイトは「快とは興奮量の減少」であり、「不快とは興奮量の増大」だといいます。

例えばサウナで整っている時、これは「快の状態」であるといえ日々の雑事から一瞬解放され、心は平穏を保っている。この状態を想像すると、心身は共に落ち着いていて、落ち着きの状態に快楽があるといえます。
一方苛立っている時や不安に駆られている時は、頭を掻きむしったり、何か物に当たったり心臓がバクバクしたりする。このことから、不快とは興奮量の増大だといえます。

そして全ての人は不快より快を望むといえる、興奮量が減少する瞬間を望んでいる。つまり、さっき出てきたように、習慣によって日々のノイズを抑えることは、この快原理で説明できるということです。

人は、めんどくさいことが何も起きないような快適な生活を無意識的に望んでいる。しかし、何も事件が起きない日々が続くと退屈するというめんどくさい生き物でもある。このめんどくさい生き物であるがゆえに、パスカルがいうように余計なことをし、余計な問題を色々と引き起こす。しかし、これが人間であると受け入れなければ生きていけない。

人は退屈と気晴らしが織り成す退屈の第2形式を生きている。その中で何か「ショック」が侵入してくると、環世界が崩れその「ショック」にとりさらわれる。しかし、とりさらわれた人間はある種動物的になると著者はいいます。

平穏が崩されたその瞬間、人はその出来事にとりさらわれ、考えざるおえなくなる。退屈を忘れ、その対象に没頭できるような状況に陥ることが出来る。

人間から退屈は切り離せない。しかし、いつも退屈しているわけではない。何かが自分をとりさってくれた時、人は退屈を忘れ動物的なある種の自由を獲得できる。退屈とは離れられない人間の生、人間はそれを受け入れるしかない。動物的な自由を感じれる瞬間、その希望的な時間を日々気長に待ちながら生きていくしかないのではないかと著者は結論づけます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました