これまで:「神は死んだ」ーーニーチェが見抜いた「意味崩壊」の始まり
意味は壊れるのではなく、ずれ続ける――デリダと〈確かな答え〉の不在
ポストモダン社会とは、かつて揺るぎないと信じられていた価値観や物語が崩れ、世界は断片化し、意味は流動的になっている社会です。
正しさや真実が一つに定まらない状況の中で、僕たちは不安と自由の両方を抱えながら生きている。確かな答えがないからこそ、自分の感覚や選択がより重要になり、他者との関係や日々の経験から新しい意味を紡ぎ出すことが求められる。
そんな揺らぎの時代をどう歩むのかを考えることが、この探求の出発点となります。リオタールとともに考えていきましょう。
ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)は、「ポストモダン」という概念を広く知らしめたフランスの哲学者で、近代が信じてきた”大きな物語の終焉”を唱えた人物です。 ポストモダン思想を語るうえで欠かせません。
大きな物語の終焉
リオタールは、近代を支えてきた「進歩」、「真理」、「解放」といった大きな物語がもはや信じられなくなったと指摘しました。これがポストモダンの出発点です。
リオタールは、現代社会を特徴づける出来事として、「大きな物語の終焉」を指摘しました。
大きな物語とは、人類は進歩する、理性は世界をよりよく導く、努力すれば解放と幸福に至る、といった近代社会を支えてきた共通の信念です。これらは個人の人生に意味と方向性を与え、「なぜ生きるのか」という問いに対する暗黙の答えとして機能してきました。
しかし、ポストモダンと呼ばれる現代において、こうした物語は説得力を失った。科学技術は発展したが、不安や格差は解消されない。合理性は、必ずしも幸福を保証しない。
人々は次第に、誰もが共有できる1つの物語を信じなくなっていったのです。
その結果、意味は社会全体を貫く1本の軸ではなく、無数の小さな物語へと分解された。人は場面ごとに異なる価値観を使い分け、仕事では成果を、私生活では癒しを、SNSでは承認を求める。そこには統一された、「生の意味」存在しません。
ポストモダン社会とは、意味が失われた社会というよりも、意味が共通化・共有化できなくなった社会なのです。その不安定さこそが、僕たちが生きている現代です。
意味の断片化
大きな物語が信じられなくなった時、意味は完全に消え去ったわけではありません。むしろ意味は、細かく砕かれ、無数の断片として私たちの周囲に散らばるようになったのです。
これがポストモダン社会における「意味の断片化」だといいます。
かつては、仕事も家庭も信仰も、ひとつの人生物語の中に位置づけられていた。しかし現代では、それぞれが別々の基準で評価される。
仕事では成果や効率が求められ、私生活では癒しや楽しさが重視され、SNSでは共感や承認が価値となる。これらは互いに矛盾していても問題になりません。
人は場面ごとに異なる「小さな物語」を生きている。会社員としての自分、友人としての自分、ネット上の自分。それぞれは一時的には意味を与えてくれますが、人生全体を貫く統一的な意味にはなりません。
そのため、どこかで「全部をまとめた答え」を欲しくなるが、もはやそれを与えてくれる物語は存在しない。
「意味の断片化」とは、人生がバラバラになったという感覚そのものです。そして、その違和感こそが、ポストモダン社会を生きる私たちの基本的な実感なのです。
それっぽさの時代
意味が断片化した社会では、人はもはや確かな意味そのものを手に入れることが出来ません。その代わりに重視されるようになったのが、「意味があるように見えること」、すなわち「それっぽさ」です。
ポストモダン社会において価値を持つのは、深さや真実よりも、意味があるように演出されているかどうかです。
仕事における「やりがい」や「成長」、人生における「生きがい」や「自己実現」は、その典型です。これらは人生全体を貫く確かな意味を与えるというより、「意味がある人生を送っている感じ」を提供します。私たちは意味そのものではなく、意味を感じている状態を「消費」している。
SNSは、この「それっぽさ」を加速させる装置です。丁寧に言語化されたプロフィール、前向きな投稿、充実しているように見える日常。それらは他者に向けた演出であると同時に、自分自身を納得させるための物語でもあります。
「それっぽさ」の時代とは、虚構の時代ではありません。確かな意味が成立していない世界で、人が必死に意味の代替物を作り出している時代なのです。
その努力があるからこそ、私たちは今日も何とか生き続けられています。
意味を消費する僕たち
僕たちは意味そのものではなく、「意味を感じる体験」を消費している。そこでは、空虚さすら商品化される。僕たちは、意味を信じて生きているというよりは、意味を感じさせてくれる「体験」を選び、購入し、使い分けています。
自己啓発書、キャリア論、マインドフルネス、ライフハック、生きがい論。これらは人生に確かな答えを与えるというより、「意味がある人生を送っている感覚」を一時的に提供するものです。
そこでは、生き方そのものがパッケージ化され、分かりやすく消費可能な商品として流通する。
問題は、意味が消費されるとき、その効果が長続きしなことです。満足感はすぐに薄れ、次の「より良い意味」を探し続けることになる。こうして、僕たちは、意味を求めているつもりで、意味の市場をさまよい続けます。
意味を消費する僕たちは、決して浅薄なのではありません。確かな意味が成立しない社会において、それでも空虚に耐えながら生きようとする姿勢なのです。
しかし、この循環が続く限り、どこかで疲労が蓄積していく。それが、現代人の感じる、「説明しがたい息苦しさ」の正体なのかもしれません。
それでも生きるということ
意味が断片化され、「それっぽさ」が流通し、意味そのものが消費される時代において、「それでも生きる」とはどういうことなのでしょうか。確かな答えが見つからない以上、生きることは不安定で、どこか宙ずりの感覚を伴います。それでも僕たちは、生を放棄するわけにはいきません。
ポストモダンはしばしば、虚無や相対主義の時代として語られます。しかしそれは、何も信じられなくなった時代ではない。むしろ、無条件に信じられるものが無くなった時代です。
意味を疑いながらも、完全には無関心になれない。その緊張の中で、僕たちは生きている。
確かな意味が無いということは、人生が失敗することをあらかじめ運命づけられているということではありません。仮の意味を引き受け、必要に応じて手放し、また別の意味に触れていく。その柔軟さこそが、この時代を生きるための現実的な態度だとおもいます。
それでも生きるとは、意味を信じ切ることでも、完全に疑い尽くすことでもありません。意味が不確かなままでも生を続けてしまう、その弱さとしぶとさを引き受けることです。
ポストモダンとは、絶望ではなく、そのような生の持続のかたちを僕たちに突きつけています。
ポストモダン的成熟
ポストモダン社会において、「成熟」とは、確かな意味を手に入れることではありません。むしろ、意味が不確かであることを知ったうえで、それでも世界と関わり続ける態度を示します。
信じ切ることもできず、かといってすべてを冷笑することもできない。その中間に留まる姿勢こそが、ポストモダン的成熟です。
この成熟は、強さよりも繊細さに近い。意味や価値が作られたものであると理解しながらも、それを単なる虚構として切り捨てない。仕事の意義、他者との関係、日々の小さな充実。それらが仮のものであると知りつつ、なお大切に扱う。その2つの見方が求められます。
ポストモダン的成熟とは、「どうせ意味なんてない」と距離をとる態度ではありません。意味の脆さを知ったからこそ、他者が信じている意味を乱暴に否定しない慎重さでもあります。誰もが不安定な足場の上で生きていることを理解すること。それは、倫理的な感受性でもあります。
意味を疑いながら、意味に関わり続ける姿勢。この宙づりの姿勢は不安定ですが、逃げ場でもあります。ポストモダン的成熟とは、不確かな世界に適応した、現代的な大人のかたちなのかもしれません。



コメント