既に「鉄の檻」に囚われている

マックス・ウェーバー

「鉄の檻」この言葉は、マックス・ウェーバーの著作「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で語られた、近代社会を生きる僕たちに関係します。生きる力が湧かない日々と安全・便利・快適な毎日、この肯定も否定もできないような日常「鉄の檻」に僕たちは囚われている。

マックス・ウェーバー(1864-1920)は、近代社会学の創始者の一人として知られるドイツの思想家・社会学者で、彼の思想は現代社会の構造や価値観を理解するうえで欠かせないものです。有名な著作として、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」・「官僚制」・「職業としての学問 職業としての政治」などがあります。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

当たり前に日常生活を送る僕たち。しかしふと疑問に思う瞬間があるかもしれない。今生きている社会とは何なのか。なぜ毎日仕事に行かなければならないのか。朝起きた途端に憂鬱さを感じる人も少なくないと思います。

僕たちは資本主義という社会に生きていて、この社会が当たり前だと思っている。しかし、資本主義社会が始まったのは19世紀後半あたりであり、人類の長い歴史(数百万年)の中のほんの百数年しか経っていない。人々の「習慣」によってこの社会が当たり前になってしまっている。

では、僕たちが今生きているこの社会はどのようなものなのか、なぜこの社会の中で生きなければならないのか、こういったことが疑問になります。

当たり前にあるこの資本主義はどのような経緯でここまで大きく拡がったのか、この過程を深掘ることで、今の社会における自分の生き方を見つめなおすきっかけになるかもしれない、当たり前だと思っている毎日の憂鬱がもしかしたら当たり前じゃないのかもしれない、そう思えるかもしれません。

この著作は、宗教と経済の関係を論じており、キリスト教(プロテスタント)の倫理観が近代の資本主義の発展を大きく後押ししたといいます。
日本人は無宗教の人が多く、宗教と言われてもピンとこない人が多いと思います。しかし、宗教的な価値観は人の原動力と深く結びつき、社会について考える上では切り離せないものです。

今僕たちは資本主義という社会に生きている、資本主義の中では毎日資本の増殖のために働かなければならない。
ではなぜ、本当に社会のためになっているのかよく分からない労働で、生きていくためのお金を稼がなければいけなくなってしまったのか、資本主義がもたらす憂鬱さの要因は何なのか、この疑問について考えるために参考になる著作が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だと思います。

マックス・ウェーバーが分析した、資本主義の発展論とその発展が近代社会を生きる僕たちに与える影響。それらを考えるために、以下の言葉が紹介されます。

  • カルヴァン「二重予定説」
  • 天職(Beruf)
  • 鉄の檻

カルヴァン「二重予定説」

ジャン・カルヴァン(1509–1564):宗教改革を推進したフランス出身の神学者であり、プロテスタントの思想を体系化した人物です。彼の教えは「カルヴァン主義」として知られ、世界中の改革派教会に影響を与えました。

カルヴァンは神を絶対的な主体として認め、神は人間が何をしようがしまいが、初めから誰を救うか救わないかを既に決めているといいます(二重予定説)

ここで人間に不安が生まれます、自分は救われる側なのか救われない側なのか。宗教徒からすると神は何よりも重要な存在で、今の僕たちの価値観では想像も出来ないような力を持ちます。そして何よりも重要な存在に救われるか救われないかを既に決められていると言われたら、何が何でも救われる側でありたいと望むのが普通だと思います。

この不安を解消するために、人は以下に書く「天職」に励みます。では、なぜ不安の解消が「天職」に励むことなのかというと、「天職に励み事業の拡大に成功した人は救われる側の人間だ」この考えが薄っすらと拡まっていたからです。

天職」に励み資本を得る、その資本を元手にさらに資本を拡大する、この行為による事業の成功こそが神から救われるべき存在だという朧げな証明になっていました。そしてこの資本の自己増殖を推進する行為、これが資本主義でもあります。

資本主義が定着する前だったら、お金が儲かったらある程度贅沢をしたり、あるいは全部派手に使ってしまいたいと思うのが普通だと思います。しかし、儲かったお金をさらに金儲けのために使う、この不可解な禁欲性に疑問を持ったのがマックス・ウェーバーで、これは神による宗教的な後押しがあったために起こった行為だと分析しました。

天職(Beruf)

キリスト教(プロテスタント)は、16世紀の宗教改革においてキリスト教(カトリック)を批判する立場として生まれました。

この頃のカトリックは、「贖宥状」をお金と引き換えに販売していました。「贖宥状」とは「買えば罪を軽減してくれるもの」です。教会・教皇の権威を用いて贖宥状を販売し、金儲けのために「これを買えば罪から解放される」という不道徳・不敬虔さを人々に拡めていた。このカトリックの腐敗を批判したのがルターで、贖宥状の誤った安心感が人々の善い行いを阻害していると言いました。

マルティン・ルター(1483–1546)は、宗教改革の中心人物であり、キリスト教史において極めて重要な思想家・神学者です。彼の行動と思想は、カトリック教会のあり方を根本から問い直し、プロテスタントの誕生へとつながりました。

宗教改革の先駆者であるルター、それに続いたカルヴァン。カトリックの腐敗ぶりを批判した2人のプロテスタント、このプロテスタントの倫理観の1つに「天職」というものがあります。

天職」とは、あらゆる職業において自分に与えられた使命です。自らに与えられた職業に専心し、「禁欲的」に資本の増殖に精進して事業を成功させる、これがカルヴァンの予定説における救われる側のリストに入っている朧げな証明になる。

このプロテスタントの倫理観が、近代の資本主義の発展に大きく寄与しているとマックス・ウェーバーは分析しました。

鉄の檻

マックス・ウェーバーによれば、プロテスタンティズムの倫理観(禁欲天職)が、資本の蓄積と合理的な労働を促し、近代資本主義を形成したといいます。しかし、この資本蓄積プロセスが制度として確立していくと、プロテスタント的な精神神から救われるために天職に励む)が失われ「合理的なシステムのみが残ってしまった」といいます。

近代に生きる人々は、宗教による巨大な力が作った「狂気じみた合理的システム」(鉄の檻)に閉ざされ、生きる目的や自然な感情の働きから隔絶されてしまった。資本家も労働者も「鉄の檻」に閉ざされ、身動きがとれなくなってしまっているといいます。

まとめ

資本主義が異常に拡大した現代。僕たちはこの社会に適応しなければ日々生きていくことに苦労してしまう、しかしこの社会に適応するのにも骨が折れる。自分の大切にしたい「感情」を優先した瞬間、この社会の雑音になり排除の対象になってしまう。

社会に適応しなければならないという観念、これこそが「鉄の檻」であり、この檻に閉ざされた瞬間僕たちは力を失う。ニーチェの言う「末人」になってしまう。

末人フリードリヒ・ニーチェが代表作『ツァラトゥストラはこう語った』の中で描いた概念で、人間の精神的退廃の象徴、力を失った人。

マックス・ウェーバーは、文化発展の最後に現れるのは「末人」であるといい、末人たちの最後の真理は次の言葉になるだろうといいます。

「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう」

マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (岩波文庫、1989年1月17日改訳第1刷発行・2024年10月4日第64刷発行)

「鉄の檻」から抜け出すにはどうすればいいのか、あるいは「鉄の檻」の中でどうように生きればよいのか、「鉄の檻」の内を知ったら「鉄の檻」の外も少し見えてくるかもしれません。

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