仕事に意味を感じられないのは甘えなのかーマルクスが見抜いた「疎外」

消費社会と疎外

前回:なぜ欲しいものを手に入れても虚しいのかー消費社会の正体(ボードリヤール

忙しく働いているはずなのに、なぜか「生きている感じ」がしない。

成果は出しているのに、手応えが残らない。休日になると、どっと疲れだけが表に出てくる。この感覚は、個人の問題として片づけられがちです。

毎日やることは山ほどある。締切に追われ、タスクをこなし、評価もそれなりに得ている。それでもふとした瞬間に、「自分は何をしているんだろう」と感じてしまう。

やりがいを見つけろ、成長しろ、前向きになれ。そう言われるほど、空虚さは個人の責任として押し返されていく。

マルクスは150年以上前、この状態をすでに「疎外」という言葉で説明していました。

カール・マルクス(1818-1883)は、資本主義社会を批判的に分析した哲学者・経済学者です。代表作は「資本論」で、社会主義・共産主義思想の基盤を築きました。

「やる気が出ない」は、おかしいことではない

寝起きの悪い平日の朝、憂鬱な休日終わり。なんで仕事のやる気が出ないんだ、やる気が出ないのは自分が悪い、みんな必死に働いているのに。こうした責任感に押しつぶされそうになる。

「モチベーションの問題だよ。」 「やる気を出せば変わる。」

周りからはこのように言われるのだろう。

ですがマルクスは、これらの言葉を根本から否定します。君は「疎外」されているだけだ。「疎外」とは、心の問題ではない。社会の構造そのものが、人をそう感じさせるようになっているんだと。

疎外は「感情」ではなく「関係」の問題

マルクスが「疎外」を論じたとき、彼が見ていたのは「感情」ではありませんでした。

疎外」とは、人と、その人の行為・成果・他者との関係が、外部化され、支配的になることとされます。簡単に言えば「自分のものが自分から切り離され、別の何かに支配されること」です。

つまり「疎外」とは、やる気があるかないか以前の、労働構造の問題。むしろ、疎外された労働ほど人は忙しい。重要なのはここです。

疎外された労働者は、しばしばとてもよく働く。言われたことは正確にこなす、長い時間働く、成果も出す。それでも空虚になる。

どうしてか。

働いていても、自分がそこにいないから」です。やる気が出ないのでは無い、やる気を注ぎ込む場所がすでに奪われているのです。

疎外①:成果が自分のものではない

マルクスが最初に指摘したのは、「労働成果からの疎外」でした。

自分が生み出したものが、自分の意図を離れ、他人の利益になり、自分を管理・評価する道具になる。このとき、労働者は成果に感情を結びつけることができないといいます。

そもそもやる気とは、成果との関係の中で生まれるものです。その関係が断たれているなら、働く意欲が湧かないのは当然です。

疎外②:行為が「自分の活動」ではない

疎外」は、労働過程にも及びます。何をするか自分で決められない、どうやるか選べない、なぜやるのか問えない

現代の労働は、自己表現ではなく、外部命令への反応になった。マルクスはこれを「自由でない労働」と呼びます。

やる気とは本来、自由な行為からしか生まれない。疎外された労働に意欲を求めること自体が間違っているといいます。

疎外③:人間的本質から切り離される

マルクスにとって、人間とは「意識的に世界をつくる存在」です。

ですが、疎外された労働では、考えなくていい、意味づけしなくていい、全体像を知らなくていい、このように呼びかけられる。人は「考える存在」であることを許されません。

やる気が出ないのではなく、人間として関わる余地がないのです。

では、「疎外」を「やる気の問題」にすると、何が見えなくなるか。

労働における構造は問われなくなる、制度は無罪になる、責任は個人に押し付けられる

これは、疎外そのものを見えなくする言説です。マルクスが批判したのは、まさにこの「個人化・自己責任化」でした。

なぜ、「やりがい」を求めるほど苦しくなるのか

皮肉なことに、「やりがいを持て」と言われるほど、疎外は深まっていくといいます。

本来、やりがいは内側から立ち上がる感覚のはずです。それを外から強制されると、人はさらに自分を演じるようになる。

マルクスの視点に立てば、やりがいが見つからないのは失敗ではありません。やりがいを持ちにくい構造の中にいるだけなのです。

「やりがい」は本来、労働を前向きなものに変える言葉でした。それなのに、現実では、やりがいを求めるほど、現実は苦しさが増していきます

マルクスの視点から見ると、これは偶然ではありません。やりがいは、「意味」ではなく「要求」になったといいます。

マルクスの時代、問題だったのは、労働が人間から切り離される「疎外」でした。現代では、その疎外を覆い隠すように、「やりがい」という言葉が使われます。

長時間働いても文句を言わない、給料が少なくても納得する、自己犠牲を前向きに引き受ける。「やりがい」は、意味を与える言葉ではなく、我慢を正当化する言葉に変わってしまった。

疎外された労働に、意味だけを上乗せする矛盾。マルクスが指摘した「疎外」は、「労働の構造的関係性」によって生まれます。

これまでに出てきた、疎外の起きる要因。「成果は自分のものではない」、「プロセスは自分で決められない」、「目的は外部から与えられる」、この状態は変わらないまま「やりがいを持て」と言われる。

これは、意味を奪った構造の上に、意味を感じろと命じることです。この矛盾が、人を苦しめます。

そして、「やりがい」は「内面化された管理」になっています。

マルクスは、外からの強制だけが支配ではないことを見抜いていました。やりがいを求めるとき、人はこう考え始めると思います。

つらいのは自分の意識が低いから」、「意味を見いだせない自分が悪い」、「もっと努力すれば感じられるはず」。

こうして、管理は外部から内部へと移動する。監視されなくても、人は自分自身を監視し追い込む。これが、最も効率のよい支配です。

やりがいを感じられないと、自分を否定してしまう。やりがいを重視する社会では、意味を感じられない人が「敗北者」になる。

やりがいがある=良い労働者。感じられない=未熟、甘え。ですが、マルクス的に見れば、問題は個人ではありません。意味を感じられないほど、労働が疎外されているだけです。それを自分の欠陥だと思わされることが、苦しさをさらに深めます。

では、マルクスなら、やりがいをどう問い直すのか。マルクスは、「やりがいを持て」とは言いません、彼が問うのは、もっと根本的なことです。

「この労働は、誰の行為になっているのか?」

やりがいを感じる前に、「成果は誰のものか」、「決定権はどこにあるか」、「労働は自由な活動か」、これらを問わなければなりません。

「意味」は、結果として生まれるものであって、先に要求されるものではない。やりがいを疑うことから、自由が始まります。

「やりがい」を求めて苦しくなるのは、あなたが弱いからでは無い。それはやりがいが労働を支える言葉ではなく、支配する言葉になっているからです。

マルクスは、こう示唆しています。「意味を感じろ、と言われたときこそ、その意味を奪っている構造を問い直せ。

苦しさは、思考を始めるための、正しいサインなのかもしれません。

消費と労働は同じ線でつながっている

前回で見たように、消費社会では欲望が作られ、更新され続ける。労働は、その欲望を支えるために回り続ける。

消費が空虚なら、それを支える労働もまた空虚になりやすい。ボードリヤールマルクスは、別の時代を生きながら、同じ構造の別の側面を見ていました。

なぜ、働いても満たされないのか。

働く→給料をもらう→消費する→また働く。この流れは、あまりに自然に見える。ですが、ふと疑問が浮かびます。なぜ、これほど消費しているのに、満たされないのか。なぜ、消費するために、さらに働かなければならないのかと。

マルクスは、この循環を偶然とは考えませんでした。労働と消費は、別の領域ではなく、同じ構造の中に置かれていると見抜いていたのです。

労働は「生きるため」から「消費するため」へ変わった。本来、労働は生存と直結していた。「つくること」と、「生きること」は、ほぼ同じ意味でした。

しかし、資本主義のもとでは、労働の目的は変わります。労働 → 賃金賃金 → 消費消費 → 再び労働へと。

ここで労働は、生きるための行為ではなく、消費を可能にする手段になる。生きる目的は、労働の外に移動してしまったのです。消費は自由な選択に見えて、構造の一部です。しかし消費は、一般的には自由の象徴のように語られます。

何を買うかは自分次第」、「欲しいものを選んでいる」、「自分の人生を楽しんでいる」。

ですが、マルクス的に見ると、この自由はかなり限定されている。「消費」とは、労働によって得た賃金を、再び市場に戻す行為でしかありません。つまり消費は、労働によって生み出された価値を、資本の循環に戻す役割を果たしているだけです。

自由に見えて、実は構造の中に組み込まれている。さらに、労働で失ったものを、消費で埋め合わせようとする疎外された労働は、人から多くのものを奪います。

達成感」、「自己決定」、「世界や自然とつながっている感覚」、これらの欠如は、不快として残る。消費は、その不快を一時的に埋める装置になってしまっています。

買うことで満たされる、新しいもので気分が変わる、自分らしさを確認できる。これらは、根本的な解決策ではありません。労働で失った意味を、消費で補おうとする構造が、人をさらに消費の循環へと縛りつける消費者もまた、疎外されているということです。

マルクスは主に労働を論じましたが、その視点は消費にもそのまま当てはまります。

消費者は、なぜ欲しいのかを考えず、選択肢の中から選ばされ、欲望そのものを外部から与えられる。欲望が自分の内側から生まれていないとき、消費もまた疎外されます。買っても満たされないのは、その欲望が自分のものではないからです。

労働と消費が一本の線でつながるとき、社会には暗黙の前提が生まれます。「働かない者は、消費する資格がない」と。

この前提は、失業への恐怖、休むことへの罪悪感、生産性への強迫を生み出します。消費社会は、労働から人を解放するどころか、さらに縛りつけています

マルクスは、「もっと消費しろ」とも「もっと働け」とも言いません。彼が投げかけたのは、もっと根本的な問いです。

「この循環は、誰のために回っているのか?」

労働と消費が結びついたこの線は、人を豊かにするためのものなのか。それとも、資本を増殖させるためだけのものなのか。

働いて、消費して、また働く、それが当たり前だと思わされてきました。ですが、その一本の線を疑うことそれ自体が、思考の始まりになります。

満たされなさは甘えではない、構造に気づき始めたサインです。マルクスは、その違和感を、見過ごすなと言っています。

疎外されているのは、あなたのせいではない

仕事に意味を感じられないとき、「自分が壊れている」と思う必要はありません。それは、壊れた構造を正しく感じ取っているだけかもしれないからです。

マルクスの思想が与えてくれるのは、解決策ではなく、視点の転換です。「疎外」を、自分を責める場所から、社会を考える場所へと変えてくれます。

心の奥底に確かに居る「自分の好きな自分」を大切にして下さい。

次回予告:僕たちはいつから「考えない存在」になったのか

忙しく働き、絶えず消費し、それでも何も残らない。僕たちは、怠けているわけでも、能力が落ちたわけでもない。

次回は、ハンナ・アーレントの思想を手がかりに、「忙しいのに、何も残らない」感覚を掘り下げます。

僕たちはいつから「考えない存在」になったのか、この社会で起きている「人間の劣化」とは何なのかを探っていきます。

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