前回:常に頑張っていて疲れがとれない― 老子が語る「力を抜けない人生」
私たちは本当に「自由」なのか。
「自分の人生は、自分で選んでいる」、多くの人がそう信じていると思います。
努力するかどうかも、感情的になるかどうかも、何を選ぶかどうかも、すべて自分の意志で決めている、、、と。
ですが、スピノザは、この前提そのものを疑いました。

スピノザ(1632-1677)は、オランダの哲学者で、神=自然という大胆な思想(汎神論)で近代哲学に巨大な影響を与えた人物です。
「人間は、自分が自由だと思っているだけである。」
この一文は、現代社会にとって非常に不都合です。なぜなら、自己責任という価値観の土台を崩してしまうからです。
スピノザが否定した「自由意志」
スピノザ哲学の核心は、必然性にあります。
この世界では、あらゆる出来事が原因によって生じている。例外はありません。
人間の思考や感情も同じです。
それらは「選んだ」のではなく、そうならざるを得なかった結果にすぎません。
にもかかわらず、人は「自分で選んだ」と錯覚する。
なんでなのか。
なぜ人は「自由だ」と思い込むのか
スピノザの答えは明確。
「人は、自分の欲望を意識しているが、その原因を知らないから」です。
たとえば、「今日はやる気が出ない」と感じたとき、私たちは「自分が怠けている」、「意志が弱い」と解釈します。
ですが、実際には、
これらの無数の要因が重なって、その状態が生まれているのではないでしょうか。
それを無視して「自分の責任」として回収するから、人は自分を責め始めてしまいます。
感情は「敵」ではない
スピノザは感情を否定しません。むしろ、感情を自然現象として扱います。
怒りも、嫉妬も、不安も、「ダメなもの」ではありません。それらは、「自分が外部から影響を受けているサイン」にすぎない。
問題は、感情を「意志で抑え込める」と信じてしまうことです。
抑えられないから苦しい、コントロールできない自分を無能だと思ってしまう、しかしこれは人間である以上自然なことです。
理解することが「自由」になる
では、スピノザにとって自由とは何か。
それは、原因を理解することです。
それを「性格」や「努力不足」にせず、必然として捉え直します。
すると起きる変化がある。
ここで言う自由は、「何にも縛られない」という意味ではありません。
遠くから自分を眺め、それを必然だと思い、しょうがないと受け流す。無駄に自分を消耗しない状態、それがスピノザの自由です。
自己責任社会が生む苦しさ
現代社会では、「自由=自己責任」と結びついています。
だから、
になる。
スピノザの哲学は、この単純な物語を拒否します。人は、一人で立ってなどいません。
友達、家族、恋人、その他自分を思ってくれている人々など、様々な必然が今の自分を形作っていると思います。
自己責任社会が生む苦しさは、「人は自由に選択できる存在だ」と過度にみなす点です。
現代社会では、成功も失敗も個人の努力や決断の結果だと考えられがちですが、スピノザによれば、人の行動や能力は生まれ育った環境や他者との関係など無数の要因によって形作られています。
それにも関わらず、結果だけを個人の責任に帰すと、人は失敗を全て自分のせいだと感じ、強い罪悪感や無力感に苦しむことになる。
スピノザは、原因を理解することが人を自由にすると考えました。
自分を責めるのではなく、状況や仕組みを理解する視点こそ、苦しみを和らげて心地よい人生を歩む手がかりなると思います。
次回予告:なぜ僕たちは「本当の人生」を生きていないような気がするのかーー世間・不安・実存の哲学
忙しく生きている。
やるべきことも、守るべき正しさもある。
それなのに、どこか他人の人生をなぞっているような感覚が消えない。
ハイデガーは、この違和感を個人の弱さや迷いとして扱いませんでした。それは、「世間(ダス・マン)」の中で生きる人間の構造的な不安です。
僕たちは、「みんながそうしている」、「普通はこうだ」という声に包まれながら、いつのまにか問いを手放してしまっています。
ですが、不安は消すべき異常ではありません。それは、実存が世間から剥がれ落ちる瞬間です。
次回は、ハイデガーの実存哲学を手がかりに、なぜ僕たちが「本当の人生を生きていない」と感じてしまうのかを掘り下げます。
本来の人生とは、正解を選ぶことではない。
問いを引き受けることなのだ。



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