これまで:なぜ欲しいものを手に入れても虚しいのかー消費社会の正体(ボードリヤール)
仕事に意味を感じられないのは甘えなのかーマルクスが見抜いた「疎外」
「忙しいのに、何も残らない」、「一日が終わっても、自分が何を生きたのかわからない」。
1日1日を生きているというより、ただ日常を上手くこなしているという感覚、「本来」という言葉を使ってよいならば、果たしてこれが人間本来の生き方なのだろうか。こういった疑問が時々浮かんでしまう。
この感覚は、気分や性格の問題ではありません。それは、私たちの社会が人間のあり方そのものを変えてしまった結果です。
その変化を、誰よりも早く、そして深く見抜いていたのが、ハンナ・アーレントでした。
ハンナ・アーレント(1906-1975)は、20世紀を代表する政治哲学者であり、人間の自由と公共性を重視し、現代社会に深い問いを投げかけました。
人間は何をする存在なのか
アーレントは、人間の行動を三つに分けました。
・労働(labor)
生き延びるために繰り返される行為。
食べる、稼ぐ、消費する。終わりのない循環。
・仕事(work)
世界に残るものを作る行為。
道具、建築、制度、作品など、持続性をもつもの。
・活動(action)
他者と共に語り、行為し、公共の場に現れること。
自分が「誰であるか」を示す営み。
アーレントにとって、人間らしさはこの三つのバランスの上に成り立っていた。
労働だけが肥大化した社会
問題は、近代以降、この三つ(労働、仕事、活動)のうち労働だけが異常に拡大したことでした。
現代社会では、ほぼすべてが「生き延びるため」「生活のため」「効率のため」に再編されています。
- 働く
- 消費する
- また働く
この循環から外れることは「無駄」や「怠け」とみなされる。
ですが、労働は、本質的に何も残さない行為です。食べればまた空腹になり、消費すればまた不足が生まれる。満足することが許されません。
労働人(アニマル・ラボランス)の勝利
アーレントは、労働だけに支配された人間像を「労働人(アニマル・ラボランス)」と呼びました。
労働人は、
しかし彼/彼女は、世界を作らず、語らず、始めない。
生きてはいるが、「生きていること」そのものを問い直す余裕を失っている、「生」というものを深く考える余白がありません。
「消費社会」と人間の劣化
消費社会とは、単にモノをたくさん買う社会ではない。
それは、人間の活動すべてが労働=消費の論理に吸収された社会です。
こうして人間は、世界に痕跡を残さない存在になっていく。
アーレントは、これを「人間の劣化」と呼びました。
劣化とは、能力の低下ではない
重要なのは、アーレントが言う「劣化」とは、知能や技術の衰えではないという点です。
むしろ現代人は、かつてないほど高度な能力を持っている。それでも劣化が起こるのは、人間が人間である理由を失うからだといいます。
これらが不要とされるとき、人間は「よく機能する存在」にはなれても、「生きている存在」ではなくなります。
公共空間の消失
アーレントが強調したのが、公共空間の重要性でした。
公共空間とは、「人が他者の前に現れ、言葉と行為によって自分を示す場」です。
ですが、消費社会では、公共空間は次第に失われていく。
残るのは、
そこでは「誰が語ったか」は重要でなく、「どれだけ効率的か」だけが評価されます。
それでも人間には「始める力」がある
それでもアーレントは、人間を完全に絶望の中には置かない。
彼女は人間の本質をナタリティ(新しく始める力)に見ました。
人は、
その瞬間、労働の循環を一時的に断ち切ることができる。労働や消費の外を感じた時、人は人間らしい「生」を実感できます。
「生きる」を取り戻すために
生きることは、消費を続けることではありません。
世界に何かを残し、他者と意味を共有し、自分の言葉で始めることです。
私たちはいつから「生きる」より「消費する」存在になったのか。
その問いを立て直すこと自体が、すでに消費社会への小さな抵抗です。人間本来の力、未規定な力の湧く存在へと。



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