國分巧一朗著 『暇と退屈の倫理学』3 (定住化)

人生

定住化

次に、「退屈」を広い視野で考えようと試みます。人類史の視点から見てみる。

この本には、西田正規という人の「定住革命」が紹介される。

そもそも、人間が「定住生活」を始めたのは約1万年前であり、それまでの約400万年は「非定住生活(遊動生活)」をしていたそうで。

これはよくよく考えると、とても不思議なことです。

僕たちが今当たり前にしている定住生活は、人類史の観点からみると最近のこと。そして何よりも、なぜずっとしてきた遊動生活を止めて、定住生活を始めたのか。

必ず、「きっかけ」があるはずです。それも、とても大きな。

たった数年勤めた会社を転職するのでさえかなりの勇気や行動力が必要なのに、400万年も続けてきたことを止めるなんて。

理由は何なのか。

定住生活が当たり前の僕たち一般人からすると、昔の人類は知能も低く技術も無く、定住したくても出来なかった。不便である遊動生活をする他なかった。こう考えると思います。

しかしいくら何でも、400万年もの間、定住のための準備に時間がかかったとは考えられません。

ではなぜなのか。理由は、「気候変動」だそうです。

これは納得できます。人間には決して抗うことのできない自然の力によって、人類は定住を強制された。遊動生活に必須な狩猟が困難になり、貯蔵(定住)が必要になった。

しかし、言い換えれば、人類は仕方なく定住をすることになった。本来人間は遊動生活を望み、その生活は今の定住生活よりもはるかに適していた、ともいえると思います。

僕たちは休日に非日常を感じたくなります。旅行に行ったり、キャンプに行ったり、サウナをしたり。

ではなぜ、自由な時間は非日常を感じたいのか、なぜ僕たちは日常を拒絶しているのか。それは、僕たちが当たり前だと思っている日常生活は、実は人類にとって当たり前じゃないから、非日常だからなのかもしれません。

安全・便利・快適の中にいる僕たちは、どこか昔の人類の不便な生活を見下している部分があると思いますし、僕も少なからずあります。しかし、見下されているのはもしかしたら僕たちなのではないかと考えさせられます。

定住以降、人類は様々な大きい問題に直面することになったといいます。

例えば、ごみ、排泄物の問題。遊動生活は、ポイ捨てや排拙がどこでも許されていて、その場所を離れれば分解者によって分解され、またその場所に戻ってきたときには元に戻っている。

しかし現代ではそうはいきません。ごみの問題は山積みですし、小さい子にトイレを教えるのに一苦労するのはこのためだといいます。

そして何よりも、僕たちが苦労している人間関係

例えば、学校や職場。毎日同じクラスや会社の同じ席につき、同じ周囲の人間関係と過ごす。日々何も起こらないことを望み、何か不和が生じてしまえば不安や不満が芽生え、それが日々溜まっていく。

全体で見た時の平等や不平等

貯蔵」するために、人間は定住を始めたのでした。しかし、「蓄える」ということは、当然「分配」が必要になります。どういう風に分けるかで揉めます。自分は多くの分け前に与りたいと思うのが普通です。

貯蔵」は「私有財産」を生み、「私有財産」の差による経済的格差は大きな権力格差を生み出します。

ここで、「ルール」いわゆる「」がとても大切になります。「貯蔵」によって不平等が生じないために「法」を整備しなくてはなりません。

ホッブズやロックも、遊動生活を人類が送ってさえいれば、社会契約説なんてめんどくさいことを考えずに済んだんだと思います。

このように、「定住」は非常にめんどくさい問題を含みます。人間の欲望や生存本能が鬱陶しく絡んできます。そして距離をとることが出来ません。

この点、遊動生活は単純で理にかなっている部分が多いと思います。人間関係で困ったら一旦離れることが出来るし、「貯蔵」をしないため経済的格差が生じない。「simple is best」です。

そして、本書で考えるべき問題、「定住」がもたらした大きな問題の一つに「退屈」があると言います。

「定住」が退屈をもたらした。では、「非定住(遊動)生活」はなぜ「退屈」をしないのか。それは、毎日同じ繰り返しということが少ない。予測可能性が乏しいから。

遊動生活では、移動のたびにその環境に適応しなければなりません。

引っ越しの作業を考えてみると、想像がつきます。その間色々な手続きや作業をしなければならず、家の周りには何があるのかどこで買い物をすればいいのか、家具や家電はどのような配置にするか、出来るだけ節約するにはどうすればよいのか等々。

退屈感は消えていて、適応するための不安やわくわくで満たされていると思いますし、僕はそうでした。

「遊動生活」は、このような状況が定住に比べ頻繁に訪れます。その度に人間の五感やそれに付随する様々な能力、思考能力や経験知識の活用など、自分の能力を最大限に活用できる。適用できなければ「死」という、とても緊張感のある中で、自分の能力を最大限発揮できる環境が用意されている。

退屈を感じている暇なんかありません。僕たちの引っ越しとは訳が違います。また、日々の達成感も比べ物にならないくらい大きいものだと容易に想像できます。

また人間は、「遊動生活」によって(日々緊張感のある「生」によって)、大脳の情報処理能力が著しく高くなったといいます。「死」と隣り合わせの「生」は人間に力を与え、その力を十分に発揮できる遊動生活は「退屈」を感じずとても充実していた。

一方「定住」は、高度な情報処理能力を十分に生かせる機会が相対的に著しく減る。

「定住」を強制された人間は、物理的移動による能力の発揮が出来なくなった。だから、心理的空間を拡大し、その中を移動するようになったといいます。有り余る能力をそこ(装飾)に使うようになり、退屈することから逃れようとした。

だから、旧石器時代から縄文時代の移行、言い換えれば遊動生活から定住生活の移行によって、土器の装飾が複雑化した。退屈をしのぐために装飾に自分の能力を注ぎ、様々な装飾がもたらす空間の認識によって心を遊動時代のように動かそうとした。

意図的にか本能的にか分かりませんが、「退屈」が人を不幸にするということを知っていたかのように。

現代の過度な安全・便利・快適が与えられている環境は問題外だとさえ思わされます。力が湧く能力の発揮の仕方どころか問題意識すらなく、ましてや遊動生活を馬鹿にしている始末です。

馬鹿にしていた昔の人類の方が遥かに、自分たちの問題意識や問題を向ける方向が適当であり、とても理にかなっていて賢いと思わされました。

定住」から「退屈」が始まり、「近代」の安全・便利・快適による加速度的な力の喪失。生きずらさを抱える理由の一つが、なんとなく見えた気がします。

みんな「退屈」に苦労し苦痛を感じている。これは「定住」が原因で、自分にはどうすることもできない。そんなどうしようもない環境、日々の中で、少しでも一瞬でも幸せを感じられたらそれだけで儲けものじゃないか。

自分はこんな不幸の中でも、幸福を感じられる心を持っているんだというように。

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